第一章 春の地獄 4

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 保田奈美穂はいつまでもスーパーとしか表現のしようがない高嶺たかねの花で


あった。


彼女にあこがれていた男子は武志郎以外にも数多くいた。告白してくだけちった


連中がそうとう数いるとうわさが聞こえていた。武志郎はもちろん告白なんてまねは


しなかった。このときの彼は、勉強はそこそこできたがそこそこにすぎず、バスケ部


では結局、レギュラーにはなれなかった。保田奈美穂に勝てるものなどなにもなく、


彼女に対して勝手に劣等感をいだく始末であった。スーパーな彼女への告白なんて十


年早い、そんな資格は自分にはないと、これもまた手前勝手にそう考えていた。彼


は、人を好きになる資格の意味をはき違えていたし、実は自信と覚悟が足りないだけ


であった。彼女に負けないものがひとつでも本当にほしいのであれば、もっとなにか


に打ち込むことだってできた、その時間はあったのだ。十四歳の武志郎はまだまだそ


のていどの少年であった。中学三年生の夏休みには、恒例こうれいの墓参りにも結局いか


ず、彼女とぐうぜん出くわす可能性すらもみずから放棄ほうきしてしまった。


 保田奈美穂は当然、F県下でも一番偏差値の高い高校へいくものだと誰もが思って


いたし、当人もそう考えていたに違いない。ところがこの年の晩秋、保田奈美穂は運


悪くウィルス性の麻疹はしかにかかってしまった。どうやら進学塾の模試会場でうつ


されてしまったらしい。病状は重く入院は長びき、合併症で脳炎まで発症する危険も


あったのだそうだ。彼女は治癒ちゆ後も学校に出てこなかった。麻疹はしかは空気感染の


可能性もある病気である。高校受験をひかえた同級生に動ようをあたえたくない、本


人たっての希望だと教師は説明し、見舞いや面会を禁じた。だが、本当は病原菌あつ


かいされてイジメにあうのが怖くて逃げたのだといううわさが流れた。出どころは


彼女にフラれた男子生徒、もしくはスーパーな彼女をつね日ごろこころよく思ってい


なかった一部の女子生徒に違いないと武志郎は思った。


 ──中学生活最後の冬は、受験のあるなしに関わらず味気のないものとなってしま


ったなぁ……こんなことなら彼女にこくればよかった、玉砕ぎょくさいしておけばよかった。


武志郎はふみだす勇気を持てなかった自分自身にじりじりとしたもどかしさを感じ、


心そこ、やんだ。



「志望校を変える? なんでいまさら?」晩しゃくの缶ビールを飲みほした伸宜は、


息子の心変わりにとまどった。志望公立高校のランクを三つも上げると武志郎が突


じょ、夕げの席でいいだしたからである。当然、特色化選抜とくしょくかせんばつを受けられる技量も


能力も息子にないことはわかっている。となれば公立に落ちた場合、すべり止めの私


立高校へいくことになる。大学には進学するだろうし、まだまだ学費がかかる。武志


郎の中学入学時期に合わせ中古の一戸建てを購入して三年目の伸宜は、できれば息子


に公立高校へ行ってほしかった。そしてなによりも身のたけに合わない高偏差値の


環境で苦しんでほしくなかった。


特別な人間でもないかぎり、大人になればどうせいろいろな意味で苦しむのだ。若い


うちは若いうちなりに、ほどほどの居ずまいの中ですこやかでいてくれればいいと考


えていた。大成はむずかしいだろうが高校でバスケを続けてもいいし、他のことを始


めてみるのもいい。過度かどの受験地獄をけん命に突破したあげくのはてに、バブル


崩壊後の就職氷河期を痛いほど味わった伸宜は、自分によく似て変にかたくななとこ


ろがある息子を心から案じていた。


「いいんじゃない? レベルを下げるっていってるんじゃないんだから」伸宜はそう


いうのんびり屋の篤子の言葉をさえぎってはしをおき、あらためて武志郎に向


きあう。


「どうして急に志望校を変えることにしたんだ? なにか理由があるのか?」


「それは……」


「将来、やりたいことでもできたか?」


「…………」


「目標ができたのなら、父さんたち、できるだけ応援はするぞ」


「べつに目標って……ないけど」


「ないのか?」


「とくに……」


「そうか……そりゃガッカリだ」


「ごめん」


「まあ、いいけど」


「ごめん……」


 そんなやりとりがあってのち、結局、伸宜も篤子も折れてくれた。そして武志郎は


必ず合格してみせると心にちかった。現状、彼の成績は上の下である。これを上の


中の少し上へともっていかなければならない、偏差値を最低5以上アップさせなけれ


ばならない。日常的に机にむかう習慣がほとんどなかった彼にはむろん、簡単なこと


ではない。しかし彼はこのときばかりは寝る間もおしんで必死に受験勉強をした。母


の篤子から「落ちたら小づかいなしにするからね」とやわらかな語調できびしいこと


をいわれたせいではない。そして志望校変更の理由は親にも教師にも友人にも、誰に


も話さなかった。体調をくずした保田奈美穂が志望校のレベルを落としたという話が


聞こえてきたせいだ、などとは口が裂けてもいえるはずがなかったのである。武志郎


はもう後悔をしたくなかった。


 奮闘努力ふんとうどりょくのかいあってか、武志郎の小づかいはなくならずにすんだ。実はたま


たま彼の志望校がその年、少子化のあおりを受けて定員われであったことが幸いした


だけなのであるが、まずは結果オーライである。武志郎はぶじ、保田奈美穂と同じ高


校へと入学することができた。同じクラスにこそならなかったが、また三年間、彼女


と同じ学校にいられる。武志郎は小おどりした。しかし、こうなると以前なしとげら


れずに心からやんだはずの玉砕ぎょくさい覚悟の告白は時期尚早じきしょうそうだと感じられた。


なにしろあと三年もあるのだ、じっくりいこう。武志郎はそう考えたが、実は彼に


は、保田奈美穂と向きあう時間は三年間もなかったのである。




 高校一年生の夏休み、剣道部の稽古けいこや合宿にはげみ、そして一学期の惨たんたる


成績の反省をふまえ、両親に対して、保田奈美穂に対して、気概きがいをしめすため、宿題


は終わらせられずじまいであったが、彼なりに勉強もはげんだ。この夏も彼女と出会


うぐうぜんこそなかったけれど、意気あがる武志郎は心をはずませて新学期をむかえ


た。秋は文化祭も体育祭もある、クラスは違うが彼女と接する機会もふえるかもしれ


ない、いや、ふやそう。武志郎にしては珍しく物事を前むきに考えはじめていた。




「保田奈美穂、学校、やめたんだってよ」二学期が始まってすぐ、放課後の部室で彼


女と同じクラスの剣道部員である大倉孝雄おおくらたかおが、道着に着替えながら驚くべき話を


はじめた。武志郎は耳を疑った。確かに今学期になってから彼女の姿を見かけていな


い気がしたのだ。


「嘘だろ? タカ」武志郎は自分よりもひと回り体が大きい孝雄をタカと呼んでい


る。


「ブシロー、保田奈美穂と同じ中学だったよな? 近所でなんかうわさ、出てない?」


「いや……」武志郎は首を横にふった。とにかく信じられない話である。麻疹はしか


治癒ちゆしていなかったのだろうか?


「なーんか、男がらみらしいぜ」


「はあぁ!?」


 孝雄はそれ以上のことはなにも知らないようであった。当然、武志郎はその日の練


習にまったく身が入らず、上級生から居残りを命じられ、かかり稽古の名の元にかな


り厳しいしごきにあい、全身、あざだらけになった。


 こうした噂はまたたく間に広まるものである。保田奈美穂は夏休み中に始めたアルバ


イト先で十歳以上年齢のはなれた男とデキてしまい、かけ落ち同然で家からも出て、


東京で暮らしているのだという。すぐに炎上、削除されたが、この件を写真入りで


SNSに上げたバカ者どもが現れ、校内でも、武志郎の住む町内でも、保田奈美穂の


名を知らぬ者はいなくなった。さらには付近住民の白い目にたえかねた彼女の両親ま


でが引っ越しをよぎなくされ、武志郎の住む町から保田家は消えてなくなった。


 こうして、高校生活の意義をある意味で失った武志郎は今にいたる。学業では完全


に落ちこぼれ、ついには剣道部もやめてしまった。追試を受けてギリギリ進級はでき


たものの、二年生になってもふさぎこんだ彼の心が起きあがることはなかった。両親


に心配をかけている自覚はあるし、自分でも情けないと感じてはいるのである。客観


的に見て、パーフェクトダメ人間。こんなことではいけない、ニートまっしぐら。そ


うは思うのではあるが、行動にうつせない日々が悶々もんもんと続いていた。


(つづく)

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