第一章 春の地獄 2
2
高校一年生の三学期、明日からは春休みに入る
終業式のあと、武志郎は人目をさけるようにして体育教官室にいる
剣道部顧問の元へと走り、退部を願いでた。当然、心拍数が通常の
なん割ましかに跳ねあがる行為ではあったが、顧問の
れなりの理由を述べればもめることはないだろうと、武志郎はどこ
かで高をくくっていた。そしてその思わく通りにことは運んだ。むろ
ん一応、引きとめられはしたが、過度な無理じいはされずにすんだ。
十分間ほどの短い話しあいが終り、武志郎が頭を下げると、柳川は
「がんばれよ」と激励の言葉までかけてくれた。退部理由は成績不
振である。不振どころの騒ぎではすまされないくらい彼の成績はひ
どかった。クラスではもちろん、学年でも下から数えた方が早いの
でである。よく進級させてもらえるものだと武志郎自身が思ったほ
どのレベルであった。
彼は東京近郊のベッドタウン、緑豊かなF県下でも五本の指に入
る進学校の普通科に通っている。そんな学校の生徒が、本分である
学業に専念したいといいだせば、いくら部活動顧問とはいっても教
師には違いない柳川に「勉強はいいから、剣道を続けろ」などとい
えるわけがないのである。武志郎は我ながら
ら、体育教官室をあとにした。柳川とは今後、体育の授業で顔を合
わせることになるので気まずいが、それもいずれ慣れるだろう。そ
れよりも部活の先輩や仲間への対応の方がしんどいに違いない。も
ちろん、終業式のあった本日も午後一番から剣道部の
腹を決めたとはいえ、武志郎もさすがに部室へ顔を出す勇気はなか
った。春休みというインターバルをはさんで
軽減し、晴れて帰宅部としてひかえめな新学年を迎えるというのが
武志郎の立てたプランである。休み中、おそらく何度も電話やメッ
センジャーアプリ「マイン」がくるだろうから、スマホは常にマナ
ーモードに設定しておくべきだろう。「マイン」は主に剣道部の仲
間内での連絡用に使用していた。彼はさっそくスマホを操作し、そ
して校門から自転車をダッシュさせた。
剣道部の稽古は当然きびしいしつらいのだが、実のところ武志郎は
嫌いではなかった。たとえば昨年の夏合宿。うだるような暑さの中で
すっぱく臭う面やら小手やらの防具をつけて、朝から晩まで汗が乾
くひまがないほどの猛練習。初めこそ食べた物を戻したりもしたも
のだが、合宿終了時のあの達成感たるやハンパではなかった。OB
が夜間、女子禁制の
してくれた明治時代からの剣道部の伝統だという数え歌と踊り。あ
れには腹をかかえて笑った。稽古のあと、男女部員ないまぜでカチ
ワリ氷をガリガリかじるのも楽しかったし、合宿最終日の花火大会
も忘れられない。いい夏だったと今でも思っている。武志郎にとっ
て剣道は、少なくとも中学時代にやっていたバスケットボールより
もしっくりくるスポーツであった。なによりも基本、団体戦ではな
く個人戦であるところが彼のしょうに合っていたのである。だった
ら今まで通り部活を続ければいいのではないか? 他者が聞けば誰
もがそういうに違いない。しかし彼はやめたくなってしまった。時
間の無駄のような気がしてきたのである。長距離走などは得意であ
るから基礎体力は問題ないに違いない。おそらく勝負勘も悪くない
方だろう。しかし武志郎は、脳の直観力を生かせる反射神経が自身
の身体には備わっていないらしいことに気づいてしまったのだ。胴
いける!と瞬時に判断しても、手足が動くのは常にワンテンポ遅く
なるのである。つまり、頭と体の連動がちぐはぐなのだ。世間では
これを運動音痴というのであろう。オンラインゲームなどでも対戦
型やシューティングは苦手であった。これはスポーツ選手としては
致命的な
スケ部に入ったが、残念ながら一七三センチで身長は止まってしま
ったし、そんなことだから当然レギュラーにもなれなかった。団体
競技には向いていないようなので、高校生になって剣道部に入部し
てみたが、実はスポーツ全般に向いていないという現実だけを、こ
の一年間で思いしらされてしまっただけであった。ならば運動はあ
きらめてなにか別のことに時間を使った方が
たったのである。中学生のころはそこまで気づけなかったので少し
は成長したのかもしれない、武志郎はそう考えることにした。今回
は客観的かつ冷静な判断をくだしたのだと。剣道は嫌いではなかっ
たが、好きだと胸を張っていえるほどのものでもなかったのだ。
ところで武志郎が柳川に話した勉強に専念したいという退部理由、
これは真っ赤な嘘である。本気で勉強に打ち込むつもりなど、もう
とうなかった。元来コンスタントに勉強をする習慣が彼にはないの
である。そんな彼でも小学校、中学校での成績は悪くなかった。む
しろよい方だった。中学までは授業さえまじめに聞いていれば、そ
れなりの結果が得られたのである。高校は、しかも彼が入学した進
学校の定期試験は、日常的に机に向かわない者をはねのけ、当然の
ごとく赤点へといざなった。高校生になって初めて受けとった通知
表にはいくぶん驚いたが、そもそも大学進学への興味は薄かったし、
基本、学校の授業で習う、いわゆる大学に入るための勉強を心のど
こかで小バカにしていたのである。彼は古典にも現代文学にも英語
にも、数学にも物理にも化学にも、歴史にも地理にも政治経済にも、
おもしろ味を感じなかった。当然、美術や音楽などは論外である。
いまどき高校くらいは出ておくべきだろうとは思っているが、大学
にいってまでなにを学ぶべきなのか? 将来のため? そのために
今、つまらないと感じることをするのは正しい行動なのだろうか?
知らないことがあってもスマホで検索すればたいていのことは片が
つくし、英語だって翻訳してくれる。それでいいのではないだろう
か? 武志郎は中学生のころから思っていた。学校の勉強に興味が
持てない分、せめて将来のために体力だけはつけておくべきだろう
と。彼はただそれだけの理由で運動部を選択していたのである。バ
スケットも剣道も瞬間的には熱くなれたが、勉強と同様、心から夢
中にはなれなかった。そんな武志郎ではあったが、一学期の通知表
を渡したときの母親の顔色を見て申し訳ない気持ちでいっぱいにな
り、少しはやる気を出した。だから昨年の夏休みは部活の稽古や合
宿とともに、勉強にもそれなりに取り組んでみた。そもそも両親の
反対を押しきってまで今の進学校への受験を決めたのは武志郎自身
であったのだ。彼の両親は口にこそしなかったものの、だからいわ
んこっちゃない、そんな表情を見せた。それも
しかったし、なによりもかつてあこがれたスーパーな美少女、中学
時代の同級生、
(つづく)
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