ああ ケリュネイア

 黄金の角に青銅の蹄を持つあの仔は草を食べているね

 ほんとうによく食べるの みんなとは違うから

 そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ

 みんなが歩くとパカパカ鳴るのだけど

 あの仔が歩くと音がしないの 歩いた場所に蹄の跡もない

 そして兎に角速いわ

 矢よりも速い

 風よりも速い

 みんなよりも速い

 そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ

 ああ ケリュネイア ああ ケリュネイア





 荒々しく乱れる熱気を一身に浴びながら、ケリュネイアは唄った。隣では次第により硬くなり始めているハンセンがいた。ハンセンはここで何度も狂獣に追い掛け回されたのだ。警戒して当たり前である。


「狂獣は夜に蠢く。まだ昼間だから大丈夫」


「分かってる」


「そう」


「……こんな時に何だけど、お嬢さんは優しいんだな」


「どうして?」


「俺のわがままに付き合ってくれている。今も気を遣ってくれたろう」


「気の使い方はよく教わった。今こうしているのは興味本位だから、君がどうこう思う必要はない」


「だれに教わったんだい?」


「恩人」


「へえ……」

 ハンセンもまた一端の商人である。ケリュネイアの表情に湿り気が混ざり始めた瞬間を見逃さなかった。そうしている内にちょっとは緊張もほぐれていた。ケリュネイアはまた唄った。


「その唄は?」

 区切りがついたところでハンセンは言った。


「お母さんがよく唄ってた」


「君の名前がある」


「私の名前じゃない。私の名前の由来になった鹿の話」


「鹿?」


「そう。お母さんが、その鹿を見て口ずさんだ唄」


「自作ってこと?」


「そうなる」


「すごいな」


「よく分からない唄」

 でも、どうしてか頭から離れてくれない唄だった。


 忘れようとしたことはないけれど、覚えようとしたこともない。一般的によくある、退屈な日常をチョットでも元気にしようと、料理の片手間にでも口ずさむ、唄かどうかも分からないような、そんな暇つぶしのそれだ。極めて重要な何かがあるという話も聞いた事がなく、そういう感じもしなかった。ケリュネイアの唯一知っている唄だから、よく口から出てくるのかもしれない。唄うのは、少し口元が寂しくなった時に丁度よかった。ケリュネイアは森にいると故郷を思い出す。両親のことや動物たちのこと、聖域のように保護された水浴びの景色のこと……そうしたものが、無色透明な布で包めとるように、一緒くたに唄として表層化してくるのだった。


 ケリュネイアの唄声は、空から降ってくるように響いた。ハンセンの耳には、変な寛容さでもってスルリと侵入してくる。形容し難いものだったけれど、言うなれば、別に聴かなくたっていいんだ、と言いながら、知らず知らずに耳の中で馴染んでいるような、奇妙な感覚だった。熱さが変わることはなかったけれど、よい清涼剤となった。ハンセンは汗まみれの素肌が澄んでいく気がした。


 それでも、胸の内を支配するのは、これから起こる出来事についてだった。ケリュネイアはいつだって呑気だった。ハンセンはこの幼気な少女を罠に掛けようとしている。「その代わりに、あとに残ったものを背負うことになる」というケリュネイアの言葉は、ほとんど核心をついたものだった。決断を下したばかりだというのに、既に後悔し始めている自分がいたのだ。しかし、待っているのは化物のような怪力を持つアルフレッドだ。もしかしたらギンターだって生きている。そんな場所に満身創痍の自分と幼気な少女二人で向かったところで何できるわけでもなく、そのまま逃げたところで、アルフレッドは許してくれないだろう。本当に果てまで追ってくる気がする。いや、もしかしたら、ケリュネイア一人だったら逃げられたのかもしれない。足の速さが売りの少女だ。そうだった。今からでも真実を話すべきだろうか……美しい唄声は、より現実を現実たらしめる幻想感を漂わせていた。


 隣でそんな懊悩を抱いているとは知らずに、ケリュネイアはまったく見当違いの懊悩を思い浮かべていた。ハンセンが良心の呵責に悩まされているのは同じであるものの、その質は段違いである。仕返し……重苦しくすると復讐しようとしているのだから、それについて悩んでいるものだと思っていた。少しでも晴れた気持ちになれるように、ケリュネイアは唄っていた。やがて件の洞窟が見えてきた、そんなに距離はないとしても、やはり視界の悪い中では迷ってしまう。二人は随分長い道のりを歩いてきたような、ほんの一瞬の道のりを歩いてきたような、不思議な距離感を覚える。そしてそれは、死への分け道である。木々がなく、開けた場所にある洞窟は、湯気を立ち昇らせ、鯨のような巨大な生物の開口を思わせる。


「やっぱり逃げた方がいいのかもしれない」

 蠢く闇を前にして、ハンセンは怖気づいた。


「ここまで来たから、私は行く」

 ケリュネイアは躊躇いなく一歩を踏み出した。ハンセンの心臓が激しく打った。もうどうにもならなかった。

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