次に目を覚ますと、ハンセンは両手両足を荒縄で縛られていた。


 状況を把握するのに数瞬の時を必要とする。視界は暗く、しかしそれは、夜の帳ではなさそうだった。視界の先にある岩壁で松明の灯りが揺れている。ハンセンは岩壁に囲まれた狭い部屋の中にいるらしいと察する。物は何もなく、あるのは縛られたハンセンが壁際で横たわっているくらいだ。あとは入口の扉があるくらいだ。ここは何処だろう、と考えながら記憶を整理していく。


 そうだ、がいたんだ。あの醜悪な化物の姿が脳裏に浮かぶ。ハンセンはずっと狂獣に追いかけられていた。それから……怪我をした。ハンセンの身体の右胸から左横腹にかけての裂傷と、チェニックの損傷。それは変わらずに痛みを疼かせている。むしろ身動き取れずに傷口を地面に擦り付ける格好になっているから、出血は治まっているものの、その痛みは断然増していた。


「兎に角、助かったのだろうか」


 ハンセンの記憶の中に、盗賊団の姿はなかった。あの時既に意識が曖昧だったのだから無理もなく、突然この場所に移動してきたような感覚を覚えていた。しかし、手足が縛られている事からも事態が好転している訳でもないことを悟る。そもそも、地の果てまで追いかけてくると言われる、あの、狂獣から逃げ出す事なんて出来るのだろうか。この部屋にはハンセン一人しかいないけれど、今にもその扉を突き破ってくるのではないだろうか。


 思考しているとすぐにそんな不安が首をもたげた。狂獣は恐ろしい相手だ。世界はもっと狂獣に怯えなければならない。都市伝説では済まされない存在なのだ。ハンセンはそれを身に持って理解している……何故、自分だけこんな目に遭わないといけないのだろうと思えてくる。都市伝説とされる程に姿を見せない存在が、ハンセンの前に現れた。馬鹿げてる。それはおかしなことだ。


 不意に、コンコンと扉がノックされた。静かな部屋の中に大きく響く。呑み込まれそうになる思考の渦が一気に霧散させる。ハンセンは喉を鳴らした。室内はやはり暑く、頬を汗がダラダラと伝った。


「失礼する」

 嗄れた短い声とともに入って来たのは、意外な人物だった。

「やあ。昨日ぶりだ」


 ハンセンは目を見張る。そこに立っていたのは村の村長だった。仕立ての悪い絹のローブを纏っている。ハンセンは一瞬目が回るような思いをした。村から逃げ、狂獣から逃げてきた末に何故村長と出会うのだ。村長宅では見なかった。つまりそれは、この場所にやってきていたからだ。


「ハンセン君、と言ったかね」

 村長はゆっくりと扉を閉めると、ハンセンと二人分の距離を空けて座った。

「さて、儂に聞きたいことはあるか」


「……ここは何処だ」


「森の中にある洞窟だよ。住めるようにしたんだ」


「何故俺は縛られている」


「我々が敵対者だからだろうな」


「敵対者?」


「ああ。それより胡散臭そうな商人の顔は捨てたのかい?」

 村長はやはり盗賊と手を組んでいる。ハンセンは確信を持った。そして自分の置かれている状況が、まだ最悪の地続きにあるということを。


「まったく驚いたよ。君が洞窟のすぐ近くで倒れていたんだ。いや、正確には倒れた、だろうな。儂の部下が発見したと同時に君は倒れたんだ。鋭い傷も負っていたねえ。もしかしたら死んでしまうかもしれないなあと思っていたが、今生きているのだったら、生き残ったのだろうね」


「縛られている所為で傷口が開きそうだ。解いてくれ」


「それは無理な相談だ。儂は力じゃ君に適わない。君が儂に粗相をしようものなら、部下が押し寄せてきて君を切り刻むだろうが、まだ死にたくはないのでな。何せ余生を謳歌している最中だ」


「余生だって?」


「あくせく畑を耕す日々にきしてたんだ」


「生きるためだろう」


「そうとも。でも今の儂はそうしなくとも生きていける。何故なら搾取される側からする側に回ったからだ」


「盗賊と繋がったな」

 ハンセンは睨めつけ、言った。


「正確には違う。儂とギンターで創ったのだ」


「なんだと?」


「暑さを紛らわせるために話してやろうかの」

 村長は不敵な笑みを浮かべている。


「明くる日、ギンターがやってきた。当時ギンターは怪我を抱えておってな、儂はそれを看病した。怪我が治った頃に、盗賊団を創る話を持ち掛けられた。辺境の村を隠れ蓑にするためだったのだろうな。日々に厭き厭きしていた儂は、容易くそれに乗った。法に悖る行為だという認識はあった。だが躊躇はしなかった。このまま死んでいくくらいなら、最後に何か面白い事をしてやろうと思った」


「面白いだと?」


「ああ」


「ギンターには人脈があった。ゴロツキたちを集めるのに時間はかからなかった。儂は参謀の立場を担った。どのようにして、法の目を潜り抜けながら、盗賊稼業を続けていられるかに苦心したのだ。いつの時代も盗賊が栄えた試しはない。だから村という形態をよく利用することにした。ギンターには用心棒としての形を与え、儂とともに村を支配させる。地位とともに腕力が儂の元に揃えば反感も出ないだろう。村という形態の中で村長が好きに振舞おうとも、それに口出す輩はいないのが一つの利点だ。二つ目は村の作物を求めて商人が訪れやすい。村の中にやってきた商人を襲ってしまえばいいと考えた。街道を狙うのは些か危険があるからの。もし盗賊団の有無を調査するために人が来たらば、儂がすっとぼけるだけで追い返せる可能性もある。ギンターの思惑通りに隠れ蓑にしたというわけだ。穴があるのも認めるが、相当守りを固めた盗賊団と言える。従来を思えばな。頭を悩ませるのは楽しいものだ」


「それは、お前を信じている村人たちをあざける行為だ」


「ああ」


「悪いとは思わないのか」


「あいつらは駄目だ。搾取されることに慣れ過ぎている。抗う意思はなく、ただ他人に縋って生きるだけの害虫だ」


「害虫はお前だろう」


「否定はしないとも。儂もあいつらも屑なのだ」


「違う。お前だと言っているんだ」


「ははは。君は何も分かっていないなあ。よほど甘い世界で生きてきたのか? 商人の世界はそんなにも美しいものなのか?」


 村長はとてもおかしいものを見たような、蔑んだ目をしていた。


「いいかい、あいつらは屑だ。醜い生物だ。慎ましい生活に感謝しているように振舞いながら、私腹を肥やすためなら他者を蹴落とすことを厭わない。ただ、蹴落とすのは自分よりも弱者なのだ。笑うだろう? ……そうだ、村にいた、一番の老人は見ただろう? ギンターだけではなかった。他の村人たちもまた老人を虐めていたのだ。暇を潰すためだけに。退屈な日常にスパイスを添えるために……自分の行いを棚に上げながら、ギンターの行いを悲し気に見つめるあいつらときたら」


 村長は膝を叩きながら、くつくつと笑った。


 ハンセンも遅ればせながら、その場に居合わせている。恐らくケリュネイアとギンターが一触即発の雰囲気だった時のことだ。確かに村人たちは悲し気に目を伏せていた。仲睦まじい様子は見なかったけれど、そこまで具合が悪いとは思わなかった。盗賊の話をしてくれたその老人のことを思い出す。何かを諦めてしまった目をしていた。侘しさを許容し、そして村人やギンターの横暴をも許容していたというのだろうか。最も敬われるべき最高齢の老人が、最も苦しい思いをしている。


「もしそうだとしても、お前の罪は変わらない」

 ハンセンは鬱屈とした靄を振り払うように言った。


「そうとも。ああ、そうともさ」ハンセンの表情が曇ったのを見て、村長は嗤った。「だがあいつらの罪も変わらない。人は罪深き生物だよ。罪を犯さずにはいられないようだ。儂やギンターもまた、その罪が生み出す甘美に惑わされておる。今度もそうだ。君が眠っている間に考えた。君は何故こんなところにいたのだろうとな。商人というのはこの世で最も狡猾だと聞く。儂の村にやってきたのも打算だ。そして何かが狂ったから、危険と判断して夜中に逃げてきたのだ。あの少女はいなかったな。一緒に逃げてきたのか? それとも置いてきたのか? 君ならあの仔の価値がよく分かるだろう。もし盗賊団の存在があるのなら、あの仔を狙う事も分かっているだろう。いざという時の為に楯にするつもりだったのか? それとも儂らに売り払うつもりだったのか? その怪我は誰に付けられたんだ? 全部は分からんが、君もまた欲に縛られているのはよく分かるとも。何せ歳だけは無駄に重ねてきたからな」


 ハンセンは押し黙っていた。


「ギンターが盗賊団を従えて村に戻った。恐らくは今頃、連れの少女は君と同じ状態で転がされているだろうなあ。ギンターの奴は手が早いからの、もしかしたらもう貫かれているかもしれないな」


「……ふざけるな」


「ふざけてないさ。君があの仔を連れてきたのだろ。まあ……君が一人で来ていても同じようにしていただろうがね。何せ我々は盗賊だ。あの仔は美しい少女。君は商人。あとは分かるね。そういう宿命なのだ」


 村長はのんびりとした動作で立ち上がった。


 ハンセンはこのまま村長を立ち去らせるのは愚策だと考え、何か引き留めるための言葉を模索する。すぐにケリュネイアは名うての賞金稼ぎだ。ギンターは返り討ちにあっているかもしれない、と意趣返しのつもりで口から出掛かったけれど、それを伝えると彼女に悪影響を及ぼす可能性があるからと、結局口を噤んだ。それは負け惜しみだ。ケリュネイアが一人で盗賊団を相手取れるわけがなかった。「こんなことをして、いつか制裁をくらうに決まってる」とハンセンが唾を飛ばすと、「儂は制裁が欲しいのだ」村長は少し悲しそうに目を伏せて言った。


「制裁が欲しい?」

 ハンセンは怪訝な表情を浮かべる。


「罪の意識はあると言っただろう。儂は余生を過ごしておる。好きにやってから、法の上で裁かれて死を迎えたい」


 村長はそう言い残して去っていった。


 ハンセンは静かになった部屋の中で「クソ」と吐き捨てる。事態は最悪だった。ケリュネイアの命や貞操が危険に晒されている。ハンセンもまた同じ状況だ。命を奪われていないことが奇跡だった。また幸運なのは、恐らく荷馬車の在処も知れていないこと。そして狂獣の存在だ。村長はハンセンの傷を詳しく尋ねなかった。拷問にかけてでも問い質すべきだったのだ。


 この地には狂獣がいる。ことは盗賊団と商人と少女の話ではない。狂獣はすべてを容易く蹂躙する。あの時の戦場のように……ハンセンはこの状況に至っても諦めようとは思わなかった。それはささやかな意地であり、矜持である。逃げ続けてきた人間であることを自覚し、そのあきらめの悪さを真っ当してやろうという贖罪への意識だ。ハンセンは手を縛る荒縄を岩肌に擦りつける。これではほどけてくれないかもしれない。でも、死にたくないのだ。それだけは昔から何も変わらない。神は諦めの悪い者を救い給う。まだ、俺は何も成していないのだ。


「君は商人に向いていないみたい。根が一般的男性の善人だから、商人としてのあくどさと変に拮抗し合っている。二面性を使い分けるのはむつかしい。状況に応じては相反してしまうから」


 不意にケリュネイアの言葉が頭に浮かぶ。

「クソが!」

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