狂獣は、執念深く追いかけてきた。


 ハンセンは森の中を逃げ続けた。木々を背にしながら、息を潜め、狂獣が通り過ぎるのを待つけれど、相手は犬よりも鼻が利く。すぐに発見され、また命を懸けた追いかけっこが始まる。最早方向などは気にしてられなかった。今自分は一体何処に居るのだろう。この追いかけっこは何時まで続くのだろう。執拗な狂獣の気配、夜の闇、上がっていく気温、体力の低下、死を囀る直感、湧き出る不安……挫けそうになる心を奮い立たせながら、必死に逃げ続ける。いつまで経っても終わりが見えてこない。狂獣は疲れを知らない。このままではジリ貧だった。


 しかし、戦って勝てるとも思えない。

 無我夢中で走り抜けていたら、いつの間にか眼前に岩壁が聳えている。崖下に出てしまったようだ。


 振り返ると、木々の間を縫うように、狂獣が躍り出てくる。


「逃げ切るのはもう無理だ」

 ハンセンは腰にある二振りの短剣を引き抜いた。


 恐ろしい。恐ろしいけれど、殺さなければ殺される。絶望が空虚な心を支配した。にじり寄ってくる狂獣に対し、ハンセンもまた同じだけの距離を取り続ける。いつ飛び掛かってくるか分からない。迷っている暇はない。そう決心した瞬間、それを気取ったかのように狂獣は前足の爪を振り上げた。同時に跳躍している。荒々しい奇声とは裏腹に、その動きは静かで軽々しいものだった。ハンセンは腰を低くして、向かって右斜め前方向に爪を避け、すれ違い様に後ろ脚の甲を切り裂く。狂獣は破裂音に近い奇声をあげる。ハンセンは躱したその勢いのままに、また駆けだした。


 ハンセンは岩壁に沿いながら走り続けた。狂獣は怯むことなく追いかけてくる。

 再び待ち構え、同じように交錯する。一撃を躱すことは出来る。同じ個所を斬りつけたけれど、最初の傷は既に跡形もなく消えていた。狂獣の最も恐ろしいところは、傷がひとりでに治っていくところだ。簡単な傷では死んでくれないし、体毛が厚く、致命傷を与えられるような一撃でも肉に届かない可能性すらある。そう、人間が勝てる存在ではない。文献をひとしきり漁ったものの、討伐することが出来たと書かれているのはほとんどなかった。ない訳ではなかったけれど、一対一では到底無理だ。やはりどうあってもジリ貧だった。ハンセンの体力は有限である。


「死にたくねえ、死にたくねえ」


 段々と岩壁の高さが低くなってくると、前方に折り返すよう形で崖に登れるようになっていた。再び森の中に這入ろうか迷った末に、崖の方に登ることにした。体力的な面で考えるのなら森の中でやり過ごした方が、回復の見込みがある気がするけれど、しかし、相手は鼻が利く。何処までいってもジリ貧なら、より距離を離せるかもしれない方法を取ることにしたのだった。


 最初に接敵した真上の位置にまで来ると、崖の端の方で狂獣を待ち構える。機械的にすら見えるその獰猛さを振りまきながら、段々と近づいてくる。足の切り傷はやはりもうなくなっている。ゴクリ、と喉を鳴らした。狂獣は躊躇なく飛び込んでくる。唯一の弱点といえば頭が悪い事だ。学習はしない。それ故に瞬間的になら御すことが出来る。俺は出来る、俺は出来ると念じながら、やはり右斜め前方向に避ける。今度は剣で斬りつけるのではなく、背後から、毛むくじゃらの尻尾が揺れる臀部を、左側に広がる崖下に蹴り飛ばした。その瞬間に、狂獣が後ろ右足を下から上へと振り抜いた。視認できない速度で繰り出された爪はハンセンの胴体を一閃に切り裂く。何が起こったのか分からなかった。無理な体制で繰り出した代償か、抵抗することも出来ずに落ちていく狂獣を唖然と眺める。すぐに奇声そのものが潰れたような音が聞こえた。


「逃げないと……」

 ハッ、とした瞬間に、胴体に強烈な痛みが奔った。


 チェニックの上からじわじわと血が滲んでいく。そこでようやく反撃をくらっていた事を理解する。「クソが!」と叫ぶと、崖上に広がっていた森の中へと進んだ。意識が朦朧としてくる。異常な高気温の中、激しく動いた所為だ。そして怪我による発熱。体力の低下も著しく、今の自分に昔のような若さがないことを悟る。しかし、よくやった。俺は狂獣を退けたのだ。発熱とともにやってきた高揚感を抱く。歩く姿は幽鬼のようだったけれど、ここで停まるわけにはいかなかった。狂獣は死なない。そして執念深い。また直ぐに追ってくるだろう。出来るだけ遠くに……混濁する意識の中、そのことだけを考えていた。朝まで待てばすべてが終わる。馬車に戻って街に行く。宿のふかふかのベッドで丸一日眠る。美味しいものを食べる。きっともうすぐだ。もうすぐ朝が来る。見えてきた光明に縋るように歩き続けた。


 ふと、視界の先で火の灯りが揺れているを見た。

 よく考えたら警戒した筈なのに、その時のハンセンにはそれほどの思考力も残されてはいなかった。思ったのは、ただ光があるということだけだ。光明を幻視した、と自身の状態の悪さを再確認したのが関の山である。


 ボソボソとした話し声が聞こえてくる。それは松明の火だった。


 森の中で松明を掲げる存在など一つしかない。近づいていくにつれて、複数の火の揺らめきを視認する。盗賊団だった。ハンセンはその場に立ち尽くした。火を持っていないハンセンの存在に気付いた様子はない。しかし、それも時間の問題だった。靄がかかったような脳で必死に考える。何が、何が起こっている。何故、目の前に盗賊団がいるのだ。頭を振り乱しながら思考を整えようと努めるけれど、その事実しか浮かび上がってこない。俺はどうすればいい。どうすればいいんだ。そんな事を考えている内に、もう声がハッキリと聞こえる距離になっていた。


「何だってこんなに暑いんだあ」


「異常気象ってやつさ」


「大した事ねえ台詞でカッコつけてんじゃねえ」


「それくらい知ってるっての」


「殺すぞ」


「やってみろ」


「黙れ」


 くだらない会話をしながら、ふと盗賊の一人がハンセンと目が合った。


「おい……」


 盗賊はすぐに、低い声と顎先で仲間の視線を前方に促す。皆がハンセンの存在に気付き抜剣する。ハンセンはすぐに取り囲まれた。


「何者だあ。てめえ」

 最初に見つけた盗賊が、剣呑な目つきで問いかける。


 しかし、その時にはもうハンセンの意識は夜の闇に溶けていた。薄れゆく景色の中、ふと思ったのは、ケリュネイアのことだった。美しい少女の身体を思い浮かべる。ああ、もしあの時に賭けをしていたのなら、俺の負けだったな……初めて明確な裏切りを見せた自分の勘が恨めしい。もう何を信じたらいいのか分からなかった。唯一つ、ケリュネイアが美しいということは事実だ。視覚的な情報ほど嘘はつかない。ケリュネイアは美しく、ハンセンや盗賊は醜い。それは運命によって定められているのかもしれない。だったらなんだ、俺はどこまで足掻いたって醜いままなのか。逃げて逃げて逃げ続けるだけなのか。真っ黒な靄のようなものが心を覆っていくのを感じていた。

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