最初に狂獣を見たのは、ハンセンの心を圧し折ったあの戦争の只中だった。訳も勝手も分からずに始まった戦争は、最初から乱戦の様相を呈していた。勇猛果敢な傭兵の一人が先陣を切り無数の槍によって貫かれる。その死の呆気なさに驚いた者が次の餌食になる。あるいは仲間を殺されて奮起した者は敵兵を躊躇なく殺した。広大な平原の至る所で行われる生命の奪い合いは陽が落ちるまで行われた。ハンセンはじっと死んだふりをしていた。狂獣が現れるのはいつだって夜だった。ハンセンも居た野営地に、黒く蠢く赤目の狂獣が姿を現したのである。


 戦争の最中だ。皆一様に疲れ果てている。睡眠を取らなかった者から明日死んでいくのだと考えると、皆必死になって寝ようとした。ただ、戦争はそんなに優しいものではなく、瞼を閉じると浮かび上がるのは、戦勝を祈願して酒を飲み交わした友の顔、人を殺すことに歓喜を見出した敵兵の顔、絶望を張り付ける骸……今日を生き残った者たちの脳裏にはそれらが手招きするように浮かび上がる。そんな最中にやってきたハンターは、容易く戦士たちの喉元を掻き切った。そして血肉を食らうのだ。楽しそうに奇声をあげながら。弄ぶように死体を振り回しながら。


 野営地はすぐに騒ぎになった。


 狂獣には隠密行動などの概念はない。好きなように振舞った結果、その存在は容易に明らかとなった。戦士たちは再び武器を手に取ると、一斉に狂獣を殺しにかかった。ハンセンを含め、多くの者が狂獣を初めて見た。都市伝説の類だと思っていた化物が目の前にいるのだから、当然狼狽する者もいた。ハンセンはその内の一人だった。見たこともない不思議な生物に只々茫然と、そもそも既に戦意を喪失していたし、何よりも相手は一体なのだから無理に参加する必要もないというのもある。戦士たちの掛け声や金属音などを聞きながら、自分の天幕でじっとしていた。


 気分も悪く、鬱屈とした感情に振り回されながら、寝ようと努めていると、いつの間にか、外の喧噪がなくなっている。退治したなら報告に来てくれてもいいのに……と思いながら、一応の意味を込めて確認に向かうと、そこには昼間に見た凄惨な光景と同じ光景が広がっていた。人の死体で溢れかえっている。恐らく戦いに参加していた者は全滅しているのだ。そこにはハンセンたち、左翼の陣地を任された者たちに命令を与えていた指揮官の姿もある。生き残っているのは、妙に怯えている者……つまり狂獣との戦いに参加しなかった、勇敢ではない者たちだ。皆一様に立ち尽くすだけ。気が付けば空が白くなっている。ハンセンは、夜が明けることがこれほど恐ろしいことなのだというのを初めて知った。


「ハハハ……」

 最早、乾いた笑みしか出るものはなく。


 ハンセンは黙々と戦う準備をした。その日は一方的なものとなった。ハンセンは大きな高揚感を覚えていた。あるいは諦観していた。もう何でもいい。死ぬのならそれで構わないのだ。こんなふざけた世界で生きていく意味などない。ハンセンは初めて人を殺した。剣は酷く重く、血は思ったよりも赤かった。ハンセンの中で何かが音をたてて壊れていくのを幻視した。


 ハンセン側の勝利だった。


 向こうにも狂獣はやってきたのだ。同一の個体なのか、二体、あるいは三体いたのかは分からない。ただ、ハンセンたちより被害が大きかったのである。そう、最初で最後になったハンセンの戦争は、一応の勝利を収めたのだった。左翼だけじゃない、そもそも全体的な規模で言えば、こちら側の方に分があったのだ。煮え切らないものはあるものの、ハンセンは勝利を得た。勝利とはいったい何なのだろう。勝利を得ると、いったい何があるというのだろう。何もかもが次第に分からなくなっていった。

 そのあと、街の雑貨屋で働きながら、商人になるための勉強に励んだ。コネづくりに奔走しながら、死とは程遠い充実した毎日を送る。雑貨屋の給金は微々たるもので、日々の生活は慎ましかったけれど、その安定感はすさんだハンセンの心を豊かにさせた。戦争が終わったあと、すべてがどうでもよくなっていたハンセンを拾ってくれた、雑貨屋の店主には感謝しなければならない。


 再び狂獣に出会ったのは、遍歴商人として出発し始めてから、の月日が経った頃だった。旅の路銀を稼ぐために賞金稼ぎの真似事などを始めると、またぐっと死の存在が近づいてくるような気がする。


 世の中何があるかは分からない。戦う術をなまらせては駄目だという思いもあったのだ。とある街の酒場で見た連続殺人鬼の手配書。そこで声をかけてくれた同業の者二人とハンセンの三人で徒党を組み、その連続殺人鬼をやろうという話になったのがことの発端だった。


 連続殺人鬼は無事に殺すことが出来た。仲間の一人が連続殺人鬼の居場所を掴み、事実その通りだったために事は簡単だったのである。問題はそのあとの事だった。居場所を掴んだ発起人の男とハンセン、そしてもう一人の男で報酬を山分けにする算段だったけれど、そのもう一人の男が報酬の全額を持って逃げた。もちろん、それは許されざる行為だ。


 ハンセンたちは男の足取りを追った。最終的にとある森の中にある村に潜んでいるという情報を得たけれど、そこに待っていたのは、あの、戦争の時に見た狂獣の姿だった。発起人の男は初めて見たようで、勇敢にも相対した瞬間に剣を抜くことが出来た。動揺はあっただろうけれど、立ち向かう勇気があったのだ。それが仇となった。ハンセンは狂獣のことを初めて出会ってからよく調べた。どうやっても敵わないのだ。発起人の男が戦っている内に、全力で逃げたのだった。狂獣の執着心は尋常ではない。獲物と定めた存在しか認識できなくなる程に。発起人の男が優秀で、それなりに戦えてしまったことで、ハンセンはその執着心が自分に向く前に逃げることが出来たのだった。その日、また一つ大きな罪悪感が増えた。


 それはあるいは狂獣よりも執念深く、ハンセンの心を蝕んだ。金を得る事も出来ずに罪悪感だけが残る。なんて世の中だ。もうちょっと報われたっていいじゃないか。俺はよく生きてきた。そう思ってみても、そうだと肯定してくれるものもいなかった。女にも恵まれることなく、空虚な毎日が続いた。何かが擦り切れていくようだった。良い人であろうと努めたけれど、それが何かを埋め合わせることはなく、ただ歪ませていくだけだ。何が正しくて、何が正しくないのか。自問自答も億劫になったころ、ケリュネイアと出会った。美しい少女だった。


 そして今一度、狂獣と相まみえている。

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