身をやつすその熱さだけは、錯覚ではなかった。


 異常な熱さに視界がくらくらしてくる。一体、何が起こってるんだろう。ハンセンはいつの間にか小川を前にしていた。ここは何処だ。しかし、何はともあれ幸運だった。道が分からなくなってから体感では半刻ほど経ったように思う。あまりの熱さに水筒の中も底をついていた。別の水筒にも予備の水はたくさんあったけれど、それは旅の道中のものだ、使う訳にもいかずに、村に戻る事すら考慮に入れ始めていた。その方が最早安全かもしれないと思い始めたのだ。いや熱さに脳をやられたのかもしれない。兎に角、身体を冷やせる場所が目の前にある。


「何だってんだ、くそう」

 悪態をつきながら、小川に入る。


 夜の森は何が起こるか分からない。念のために御者台に忍ばせてある短剣二振りを小川の傍に置く。その横にチェニックと脚絆を脱ぎ捨てる。直ぐに小川に飛び込んだ。森の闇にも目が慣れ始めていた。気温の所為か水が生ぬるくなっている。それでも水が身体に浸透していく内に、のぼせたような感覚もマシになってきた。軽く身体の汚れを流してから、小川を出た。荷台から水浴びようにしている布を取り出し、身体を拭く。チェニックと脚絆を纏いなおし、ついでに短剣も腰に装備しておくことにする。短剣を身に着けたこの行動が、自身の窮地を救うことになる。


 そして窮地をもたらすものはすぐにやってきた。


 カサカサッ、と茂みが揺れる音がする。

 小川の反対側の森の方から、巨大な影がぬるりと現れる。


「…………ッ」

 ハンセンは大きく息を呑んだ。


 その圧倒的な存在感は、闇に溶けていても変わる事はない。その闇から這い出ててくるように、月光がそれを照らし始める。黒く長い体毛が全身を覆っている。毛むくじゃらの中から真っ赤な眼光が光っている。骨格や動作は犬のそれに近かった。しかし、何よりもまず異常な大きさだった。普通の犬の倍、いや三倍はある。ひょっとするとそれ以上だ。対岸にいながらもよく分かる。それは鋭い牙と爪を持っている。ハンセンは知識としてその存在を知っていたし、人生に於いて二度見たことがある。〈狂獣きょうじゅう〉……と呼ばれるだ。夜の移動を阻むのは、盗賊と狂獣だ。特に一個体を対象とした場合の危険度は、狂獣の方が盗賊よりも遥かに危険である。その分滅多に見る事はなく、半ば都市伝説のように思われている街もあるけれど、しかしそれは実在する。生態のほとんどは謎に包まれ、何処からともなく現れては消えていく異形の存在。人類の仇敵。ハンセンに近づいている個体は、二度見た両方と同様の姿かたちをしていた。


「…………ハハ」

 ハンセンは驚愕のあと、ただ茫然とするしかなかった。


 心の片隅に巣食う最も恐れていた光景。ハンセンは身体が上手く動かなかった。狂獣は涎を垂れ流しながら、獰猛な唸り声をあげる。その足取りはゆっくりだったけれど、それは正しく獲物を狙うハンターの動きだった。浅い小川なんて簡単に渡れてしまう。自身の死が目前に迫っている。考えなければ……。考えなければ……違う。考えている場合じゃない。逃げなければ!


 ハンターの動きが変わったのは、あまりにも唐突だった。


 極端な緩急を以て迫りくる狂獣。硬直した身体は、幸いそれから目を離さなかった。爆発的な跳躍力で水しぶきをあげる狂獣の荒々しさに、ようやく硬直の溶けたハンセンは、間一髪のところで躱すことが出来た。荷馬車を気にしている余裕はなかった。もつれそうになる足で地面を踏み込み、全力で逃げる。背後で狂獣が奇声をあげる。そしてハンセンを追いかけてくる。止まれば死ぬ。振り向けば死ぬ。迷った瞬間死ぬ。狂獣はそういう相手だ。ハンセンは死に物狂いで逃げた。


「くそったれ」

 何故、こんなところに。

 いや、奴らは何処にでもいる。いるところには。

「死にたくねえ、死にたくねえ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る