①
「君は商人に向いていないみたい。根が一般的男性の善人だから、商人としてのあくどさと変に拮抗し合っている。二面性を使い分けるのはむつかしい。状況に応じては相反してしまうから」
ケリュネイアのその言葉が、妙に耳の中でこだました。
やがて規則正しい寝息をたてはじめるケリュネイアを、ハンセンはこっそりと恨めし気に眺めた。それも数瞬の事だ。ハンセンはすぐに支度に取り掛かった。準備を整え、またケリュネイアを見る。俺の勘は当たるんだ、後悔しても知らないぞ、と口だけ動かすと、慎重に奥間を出た。扉の軋む音をやけに大きく響く。村長たちを起こさないように、細心の注意を払った。暗闇にはもう慣れていた。だから直ぐに理解する。居間の方には、ギンターどころか村長の姿さえなかった。
何故……と、ハンセンはすぐに最悪の想像をしようと務める。ギンターと村長に盗賊団との繋がりがあるものと想定する。
その上で今この場所に二人がいないという事は、ハンセンでさえ夜に外を歩こうというのだ、彼らだってそうしない保証はない。何せ地の利を知っている。夜道でも問題なく盗賊団の元へ向かえる。それを当然のものと考える。もしかしたらもう折り返してきているかもしれない。ケリュネイアの言う通り憶測でしかない。ハンセンはその憶測に何度か命を救われたのだ。盗賊団と関係があるかもしれない。裏があるかもしれない。殺されるかもしれない。そうやって商人として生きてきた。少なくとも、村長とギンターがここに居ないという事実があるのだ。こんな深夜に、出掛ける筈もない。村の特性がどうなのかは知れないけれど、夜な夜な喋りあかすような、和気あいあいとした雰囲気は感じられなかった。
やはり正しいのだ、俺は。そう言い聞かせながら、村長宅を出る。
月明かりの優しさが、一等不気味である。室内よりも外は明るかった。村特有の侘しさが一層助長されたように思える。ハンセンは暫く夜の闇に怯えていたが、村を囲む木々のさざめきに追い立てられるように、馬小屋に急いだ。繋いであった自分の馬を、村長宅の横に置いてあった馬車に繋ぐ。ハンセンは馬たちを馬小屋に入れた時、もう一頭、そこで繋がれているのを見た。それが今見た時はいなかった。恙なく準備を整え、御者台に座ったところで唐突な罪悪感に襲われた。ケリュネイアとの話し合いは決裂した。しかし、彼女は村長たちがいない事も、馬がいないことも知らないのだ。それを伝えれば心変わりしてくれるかもしれない。
「ふん、彼女はきっと死にたがってるんだ」
死ぬときは死ぬ。それで構わないなどと言っていた。
「ああ、世界は残酷だ。盗賊は何処にだっているし、少女は死を乞うている。何だって俺は夜逃げみたいなことをしてるんだ? ああ、これは夜逃げなんだな……いるかどうかも分からない敵に怯え、そして夜の闇に怯えている。しまいには襲った少女にすら怯えている始末だ。こりゃあ傑作だぜ」
ハンセンの独り言は虚しく消えていく。
暫くの硬直のあと、ハンセンは荷台から商談用の羊皮紙と書くものを取り出し、村長宅に戻る。そこに伝えなければならないことを走り書き、また踵を返した。明朝に出る、というのがケリュネイアの答えなのだ。それで死のうが生きまいが、自分には関係ない。そこまでしてやる余裕はない。再び御者台に飛び乗ると、直ぐに馬車を走らせた。田圃の脇を通り抜けて村の外に出る。木々たちは不気味に揺れている。ホウ、ホウ、と梟が鳴く。ぶるりと身体を震わせたハンセンは再び気がせってきた。しかし、闇が蠢く森は、そう易々とは進ませてくれそうもなく。
程なくして、どちらに街道があるのか分からなくなった。
手元にある松明の灯が頼りなく揺れる。こうなることは予想の範囲内だ。分かっているから今ここにいる。そう言い聞かせて冷静になろうと努める。だが、進む度にその無謀さが身に染みてくる。松明の灯りは本当に心許ない。御者台の背、つまり荷台の前頭部分に二ヵ所松明を掲げる鉄製の柵があって、手に持っているものと計三つの灯りがあるものの、それでも前方は見えにくく、また馬車の大きさもあって進みにくかった。馬が木にぶつからないように舵をとらなければならず、それはたとえ日中だろうとも苦労がいる。ここの森は比較的地面が平坦であるし、木々との感覚もそれなりにあるから、何とか進むことが出来た。逆に高低差の激しい場所や木々の感覚が狭いところに行き当たると、そこは村にやってきた時に使ったルートではないということだ。そして、ハンセンは今乱立する木々を前に往生していた。ここは街道の方角ではないのだ。この森に盗賊団が潜んでいるかもしれない。そう思うといても立ってもいられなかった。元来た道を引き返し、左右を注意深く観察する。けもの道のようなところを通ってきたはずだ。分かりにくいだろうけれど、注意深く見れば道が見えてくる筈。
車輪の音が夜の森にこだまする。
その音が次第に速まるような錯覚を覚える。実際のスピードは変わっていない。五感のすべてが焦燥感を駆り立ててゆく。ハンセンの額は汗でビッショリ濡れていた。何だか、とても熱い気がする。
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