理不尽な世界

 闇に溶ける木製の天井を眺めながら、ハンセンはする。


 元はといえば、ただの村の荒くれ者でしかなかった。日々田圃を耕しながら、慎ましい食事をし、あとは眠るだけ。父も母もその生活に何ら不思議を抱いていなかったし、実際に十三の歳になるまではハンセンもそうだった。比較対象がなかったからだ。ハンセンの世界は一つの小さな村の中で完結し、大人の言うことを聞き、そして生きるために田圃を耕すのが当然の宿命だと思っていた。


 宿命、なんて言葉は都合がいいかもしれない。ただ、何も考えていなかっただけなのだ。親の言う通りに生きていれば、苦しむことはない。何せ贅沢とは何かを知らなかったのだから、苦しまないことを、あるいは頑張らないことを優先したって何ら悪い事はないはずだ。


 頑張った先に何があるのかを知ったのは、村に戦傷を抱いた傭兵の男が流れ着いた時だった。今思えば、知らず知らずに多感な時期にいた。十三歳のハンセンは、物々しい雰囲気を纏う傭兵に畏怖を覚えると同時に、大きな興味が芽生えた。村に商人がやってくることはあったけれど、傭兵がきたことはなかった。商人はほとんど日常の一部となっていて、彼らが持ってくる珍しいものには、微かに外界の景色が投影されていたけれど、傭兵という存在は、そんな珍しいものとは比較にならないほどの、外界で起こっている様々な背景をその身に宿していた。


 ハンセンの父は村一番の頭脳を持ち、傭兵の治療を任され、ハンセンは偶然その生々しい傷を見る機会を得た。


 最初に見た時はローブを纏っていて気が付かなかったけれど、まずは第一その傭兵には左腕がなかった。二の腕の半ばから先がなく、その短くなった腕に包帯を巻き、それには血が滲んでいる。乱暴に縫い合わされたわき腹の裂傷は、酷くグチュグチュとしていて膿んでいる。ごわごわした頑丈そうな顔も傷だらけ。鋼のような肉体は酷く汚れ、父はこの劣悪な状態で何故生きているのか不思議でならないと言った。幼いハンセンから見てもそう思った。得体の知れない恐怖とともに、人はこんなになっても生きていられるのかという感銘を受けた。


「クソが!」


「野郎は絶対殺す!」


「地の果てまで追いかけてでも殺す!」


「クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ!」


 傭兵は治療の間、村では聞いた事がないような罵詈雑言ばりぞうごんで怒り続けた。


 やはりハンセンはそれに怯えたし、一方で興味の種がふつふつと芽を生み出しはじめていた。傭兵は腕を奪った敵兵を殺すと言っているようである。腕を奪われてもなお、この迸る闘争本能には尋常ではないエネルギーがある。村で生きていたら死ぬまで得られないようなエネルギーがあるのだ。その瞬間、ハンセンの世界は初めて輪郭を描いたかのような明度をもって色付き始めた。治療が無事に済み、傭兵が一命をとりとめたその日、ハンセンは興奮で眠れなかった。


「ねえ。戦争ってどんなの?」

 次の日、ハンセンは意を決して傭兵に問いかけた。


 小屋の中、村で一番質の良いベッドに寝かされていた傭兵は、壁際の方を向いて横たわっていたけれど、ハンセンの声でゆっくりと振り返った。部屋側のベッドの傍に立つハンセンの瞳には怯えが宿っている。傭兵は「はっ」と鼻で笑った。そしてまた壁際の方を向いて寝息をたてはじめた。ハンセンは茫然としたまま突っ立っていたけれど、暫くしたあとに怒りが湧いてきた。勇気を出して声をかけたのに、それは村の少年には人生に於ける最高の勇気を振り絞った末の行動だったのに、それが容易く無下にされたのだ。それも嘲笑とともにである。少年は短絡的だった。おおよそ浮き沈みのない人生をこれまで歩んできたのだ。身体の内側を焦がす怒りに免疫はなく、ハンセンの心は感情に容易く支配された。大人になった今でも思うし、それを行った後にも思った。まさか自分がそんなことをするとは。ハンセン少年は傭兵にあろうことか飛び蹴りを食らわせたのだ。たっぷりと助走をつけたそれは、怪我人には苦痛だった。傭兵は壁に顔をぶつけ、咄嗟に庇いきれずに無くなった左腕の方を自分の身体の下敷きにしてしまった。


「いてえ! なんだあ!」


 あれだけ鋭利な風格を保っていた傭兵が、間抜けな声をあげている。ハンセンは面白くなって笑った。しかし、直ぐに逃げるべきだったのだ。傭兵の動揺も一瞬のこと、直ぐにハンセンの頬を目掛け、残った方の右腕で思いっきり殴り飛ばした。それは悲鳴もあげられない程の衝撃だった。ハンセンは文字通り宙に飛んだ。そして意識もあっという間にブラックアウトする。


 目覚めると一日が過ぎていた。何があったのか分からずに、ただ頬の痛みに呻いた。直ぐに父から事情を説明された。


 傭兵はハンセンを殴ったことを村人たちに咎められ、逃げるように村から去っていた。ハンセンが飛び蹴りをしたことは、傭兵の嘘ということになっていた。別に傭兵がハンセンを庇ったとかではないだろう。村人たちが傭兵の言葉を信じなかったのだ。態度の悪い余所者を信じるわけがなかった。その日から、胸の内側に芽生えていた興味の種が、おかしな風に開花し始める。


 のようなそれは、胸の内にわだかまりを生み、村での生活に疑問を抱くようになった。こんなところで田圃を耕している人生でいいのだろうか。それは本当に生きていると呼べるのだろうか。そんな自問自答を日々繰り返し、いつの間にかに二十歳になっていた。


 その頃のハンセンは傭兵の影響を受け、身体を鍛え始めていた。素行も日に日に悪くなった。村で一番の荒くれ者となった。穏やかだった父とは反発し合った。村を出たのは明確な意思があったわけではなかった。あの日の傭兵と同じである。ハンセンは素行の悪さを咎められ、逃げるように村から出たのだ。


 外の事なんて何もしらない。せめてもの恩情として与えられた路銀を使って、街に向かうことにした。その街で暫くは路銀を消費するだけの日々を送ったあと、紆余曲折を経て戦争の部隊に立つ。死ぬことはなかったけれど、何をすることも出来なかった。草場の陰でじっと死んだふりをしていた。あまりにも凄惨なその世界は、ハンセンに許容できるものではなかった。辺りが静かになったあと、周囲に転がる死骸を眺め、散々に吐いた。村を出たことを後悔した。そしてその後悔は、商人として生活できる地位を固めた今も、まったく変わることなく、胸を苦しめている。その後悔が商人としての勘に拍車をかけていた。何故だかは分からない。ただ勘なのだ。何かよくない事が起こるという勘だけがハンセンの頼りだった。



 。ハンセンはゆっくりと身体を起こした。


 夜道を進むのは危ない。しかし、明日まで待てば危険があると勘が告げている。どうしたらいいのだろう。ハンセンの脳の働きを焦りが曖昧にさせていく。


 死ぬかもしれない。ふと、そんなことを思うと、身体は自然にケリュネイアの方に向かっていた。どうせ死ぬのなら、ケリュネイアを犯してしまおう。道中ずっと悶々としていたのだ。幸いにもケリュネイアは最高の美少女だ。最高の美少女を抱きながら死ねるなんて素晴らしいじゃないか。ハンセンは恐怖を覚えると、途端に訳が分からなくなった。それ故に冷静であろうと努めるけれど、それを支えているのは商人としての勘なのだ。その勘が焦れと告げている。


「なんて美しいんだ……」

 いつの間にか、ケリュネイアの瞼が開いている。

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