次の日、目が覚めると、村は酷い蒸気に覆われていた。


 霧のように広がるそれは、しかし霧ではない。肌を撫でていく感覚が、それをだと認識している。昨日よりも更に熱くなっている。ケリュネイアは茫然とした。世界はいったいどうしてしまったのだろう。疑いようなく異常気象だ。このままここにいたらのぼせあがってしまう。ケリュネイアは急ぎ荷物と身だしなみを整えた。また外に出る。蒸気で曖昧になる視界の中、どう行動するべきかを思案する。まずは情報を整理しなくてはならない。これは森を破壊しかねない由々しき事態だ。自然はそれすらも受け入れる。それは重々承知しているけれど、ケリュネイアはそれほど寛容にはなれなかった。何故なら、ケリュネイアは人間だからだ。常に助けられ、教えられてきた良き隣人を、このまま放置するなど、当然出来はしなかった。

 村の中に他の異変はないか、見て回ることにした。


 蒸気の所為で分かりづらいものの、特段変わったことはなさそうだった。それぞれの掘っ立て小屋の中も調べたけれど、違和感はない。死体を燃やした空き地には焦げた燃え滓が散らばっている。


「蒸気は何処から出ているのだろう」


 地面から、ではなさそうだ。不思議なのは、その蒸気が空に昇ることなく、滞留を続けていること。そして散っていかないこと。何か明確な存在意義でもあるかのように、村の中に視覚的な実体を持って漂い続けている。それに伴う環境の被害については、自然に親しみのあるケリュネイアでさえ判断付かなかったけれど、良くはないことくらいは分かる。何よりもまず、良好ではない視界が、これほど煩わしいものだとは思ってもみなかった。ただ白い光景は一種の幻想感があって趣深くはあったし、その幻想感の持つ特別な緊張感は肌先をよく刺激したけれど、それも四半時前の話だ。今はただ探索を困難にする障害でしかなかった。


「村に何もないなら、森の中……」


 しかし、森の中も同じような状況なら、村にいるよりよほど危険だ。方角を把握する特徴的なものがなく、親しみのあるケリュネイアと言えど、迷い込んでしまうのは自明の理である(現に、村から見える範囲の森には、同じような蒸気が漂っている)。ケリュネイアはさてどうしようか、と額の汗を拭いながら、一旦村長宅に戻ろうとすると、ふと村長宅に続く坂道の右横にある、段々になった田圃の境目の芝垣の部分に、を見た。丁度下りながらだと見えなくなるような位置だ。ケリュネイアは警戒をしつつ、その影に近寄った。それは人の姿をしていた。


「……アルフレッド?」

 まだ姿を見ない、頭目の大男の名前を呼ぶ。


 それが最も可能性の高い名前だったからだけれど、それはすぐに間違いだと解る。茶色のチェニックに黒い脚絆、首元には翡翠のネックレス。見覚えのあるその身なりは、乾いた赤黒い血で染まっている。その表情にもまた土と血で汚れ、ピクリとも動かない。ケリュネイアは息を呑んだ。


「……ハンセン?」

 何故、ここに……という疑問を呑み込み、急ぎ駆け寄る。

 仰向けのハンセンの首元を二本の指で押さえる。身体に熱がある。脈が動いている。死んではいない。


「兎に角、村長の家にに連れていこう」


 色々思う事はあったけれど、安静にさせるのが先決だ。しかし、今やこの村は安息の地ではなかった。微動だにしていなかったハンセンの表情が苦痛で歪む。「うう……」と漏らす吐息は、熱気を帯びる。こんなところで体力の回復なんて見込めないかもしれない。でも長距離動かすのも危険だ。この村の近くには小川がある。場所はもう分かったから、昨日の半分の時間で往復できる。逡巡のあと、やはり村長宅に連れていくことにした。


 室内に蒸気はないけれど、熱さは気持ち軽くなったくらいだ。村長のベッドに寝かせると、傷の手当てをした。運よく村長宅には包帯などの最低限の物はあった。チェニックを脱がすと、左肩口から胸部にかけて裂傷がある。傷口は浅いけれど、広範囲なため血が派手に出たのだ。


 他にも複数の打撲痕があった。どういう経緯で怪我をし、この場所に戻ってくることになったのかは分からない。とりあえずは水を持ってこよう。村の貯水は戦いに巻き込まれて土に還っていた。ケリュネイアは急ぎ小川の水を運んだ。正直なところ、ケリュネイアの力では一回で運べる量が微々たるものだ。確かに一往復の時間は短縮出来たものの、三度往復することになったため、結局四半時くらいはかかったように思う。


 相変わらずハンセンは熱にうなされている。それが体温の所為なのか、気温の所為なのかは定かでない。ケリュネイアに医療の心得はなく、絶え間なく水分を与えてやること、汗を拭いてやることくらいしか出来ないでいた。不完全であることは分かっている。しかし、何はともあれ、この事態を招いたのはほかならぬハンセン自身なのだ。



「村人たちは皆死んだ。君まで死んだら私はやるせない気持ちになる。だから頑張って生きてくれ。最善は尽くすよ」

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