ケリュネイアは村を出ると、まずは水場を探すことにした。


 ハンセンの話によると、あの村から街までは馬車で二日ほどかかると言っていた。今日はもう夕方だ。あと一晩村長宅を借りるとして、その間ずっと血塗れの状態でいるのは絶えられなかった。常に鉄の臭いがする。それも純粋な鉄の臭いではなく、人体の何らかの臭いが混ざった異臭だ。血は渇き、こびりついている。もちろん衛生的に良くない。一刻も早くどうにかしなければならなかった。ケリュネイアは走ることにした。


 森の中を走り回る少女というのは、一見して無邪気な光景を思い浮かべるけれど、実際のところそんな良いものではない。何故なら、その少女がケリュネイアだからだ。ケリュネイアのそれは変幻自在のアクロバットの領域である。木々の隙間を縫うように走る姿は風のように視認できない速度だ。


 ある時は猿のように木に登ると、枝から枝へ、そして木から木へと跳んでいく。故に〈鹿〉と呼ばれているのだ。この異名はたまたまその酒場に居合わせた他の賞金稼ぎたちとともに定めたものである。鹿だけは入れて欲しいというケリュネイアの要望のもと、そうなった。斬った張ったを生業とする賞金稼ぎには、知名度をあげるために異名が必要になってくる。異名が広がると単純に仕事が増えるだけじゃなく、仕事時の生存確率まで上げてくれるのだ。知られる、ということは、それだけで多面的な武器になる。もちろん、ジョナサンが教えてくれたことだ。ジョナサンは、ケリュネイアの一切合切を知っていた。そして彼女の「私以外の人には絶対言ってはいけないよ」という言葉を、ケリュネイアは律儀に守り続けている。ケリュネイアのそれを知る時は、つまり死人が出る時だけだった。


 四半時にも満たない程で小川を発見することが出来た。


 ケリュネイアの目的はもちろん汚れを落とすことにあったけれど、もう一つ、異常な熱さを和らげるためでもあった。ケリュネイアは恥じらうことなく衣服を脱ぎすてていく。纏うものがなくなると、そっと小川の中に足先をつけた。


「……どうして」

 そして異変を肌で感じ取る。


 小川の水が冷たくない。人肌以上、お湯と呼ぶには些か温い程度。いつからこうなっているのだろう。これでは、川魚が生きていられなくなる。今の所浮かんでくる影は見当たらないけれど、この小川全域がこうであるのなら、もう被害は出ているかもしれない。これは由々しき事態である。


「涼みにきたのに……」


 一人ごちると、ゆっくりと身体の汚れを落としていく。最たる汚れはほとんど衣類の方にあった。身体の方は水と戯れていると次第に落ちた。少し水位の深い所を発見し、そこでぷかぷかと浮いていた。川底に足をつけると、ごつごつとした石を踏んだ。少し移動しても触れるのは石だった。くるぶし辺りをよく分からない植物が撫でる。次第に、この中途半端な温度の水浴びも悪くはないのかもしれないと思うようになった。


 ケリュネイアの感想は兎も角、ここに住まう魚たちには堪ったものではないだろう。もう既に逃げてしまったのかもしれない。水面を見ていると、極小の小魚はたまに見た。暫く遊んだあと、衣服の洗濯をした。それほど時間が経っていないからか、ほとんどの汚れは水で落ちた。貫頭衣の腰元辺りの血だけぼんやりと残っていたけれど、許容範囲だと思うことにした。洗濯した衣服を適当な木の枝に掛ける。一仕事終えると、再び川に入った。異様な熱さに辟易するけれど、服はすぐ乾いてくれそうだった。


 日の入りがすぐ傍までやってきた。

 昼と夜の境目はどこか不穏な気配を帯び、その不完全に混ざった紫色の空は生々しい艶やかさがある。


 流石にまだ乾いていない衣服を腕に掛け、全裸のまま村へと戻った。村はやはり静けさに満ちていた。そこに人の営みがあったとは思えないほど、何故だか景色が風化している。実際にはさっきと何も変わらない筈なのに、そう、未練故に留まっていた村人たちの魂がようやく離れてしまったかのような、色褪せた伽藍洞がらんどうの景色だ。


 もぬけの殻。ここはもうなのだ。恐らくは、そういうことである。ケリュネイアは妙な虚脱感に襲われながら、村長宅に這入った。しかし、そういえば晩ごはんがまだだったと、村に出た。流浪の盗賊団が一つの掘っ立て小屋に食料を詰め込んでいるのを見た。


 奇しくもそこはあの老人の家だったけれど、それに特段思う事はなかった。農村らしく肉などはほとんどなかった。あるのは干し肉くらいのもので、あとは野菜と穀物ばかりだった。贅沢は言っていられないし、何より野菜も好物だ。嫌いな食べ物などは特にない。目に映る食材を適当に持って帰ると、かまどに掛けてあった鍋に根こそぎ突っ込んだ。昨日村長が作ったものを再現しようとしているのである。実際に料理の見た目は変わらなかったけれど、味は少し違った。香辛料などは置いていなかったから、恐らくは煮込み方の違いだろう。まあ、美味しく食べられたから、ケリュネイアは満足だった。


 何だか久しぶりに衣服を着ないで過ごした気がする。


 人と接するのは興味深い事ばかりで楽しいけれど、その上では常識が必要とされる。ジョナサンが一番最初に教えてくれたことは「人の世で生きていくなら、服を着なければならないよ」ということだった。


 それが常識だからである。常識がない人間はつまはじきにされるのだ。出る杭は打たれる。最初はずっと納得がいかなかった。まだジョナサンに全幅の信頼を置いていなかったころだ。何故、したくないことをしなければならないのかと、散々文句を垂れていた。衣服というものを受け入れるようになったのは、偶然とある凄惨な光景を見てしまったからである。


 大通りから二本離れた路地裏での出来事だ。ケリュネイアは人混みを嫌うから、人の少ない方に進んでいると、それに行き遭った。そこには全裸の女と下半身を露出させた男が二人いた。男二人は女を取り囲み、やがて犯した。悲鳴をあげる女の口を塞ぎ、抵抗する両膝を無理やり開いた。その時に「お前が裸でいるのが悪いんだ!」という男の声だった。


 手のひらの隙間から「奪われた! 服を奪われたの!」と必死に叫ぶ女の声が続いた。「知るか、ぼけ」と男は女の腹を殴った。鈍い嗚咽を漏らし、女は死んだかのように大人しくなった。きっとそれは、賢い選択だったのだ。ここで抵抗する方がよりつらい思いをすると瞬時に判断した結果だった。ケリュネイアはその一幕を屋根の上から眺めていた。「お前が裸でいるのが悪い」という言葉が妙に引っ掛かる。それは本当に悪いことなのか。後々ジョナサンに問うと「悪いかどうかは分からない。ただ、倫理的によろしくないのは間違いないね。服は着るものだし、街は服を着て歩くものだ。その強姦されていた女の背景を慮れば同情するよ。裸でいるのが悪いかどうかは分からないけれど、その強姦魔たちがやったことは間違いなく悪いことだ。罪に問われるべきことだ。しかし、男にとって裸の女が転がっているのというのは、どうぞ食ってくださいと言っているようなものらしいんだ。女の私にはよく分からんがね、それはもう男という生物の特性というべきものだ。男は裸の女を襲うように出来ている。その衝動に抗う事はどうも無理なようだ。甚だ遺憾ではあるけれど、それは法ですら縛ることが出来ないものなんだよ。だから我々女は気を付けねばならないね。力では劣る私たちが、その身を守るために、何か別の術を身につける。自分には必要ないとか思わないでおくれ、ネイア。もし必要ないのだとしても、必要のない女がそれを知っていることこそが、私たちのようなか弱き乙女にとって何よりも意味のあることなんだから」


 ジョナサンのその真剣なまなざしに魅入られて、その日から文句を言わずに服を着るようになったのだ。ジョナサンもケリュネイアが服を嫌っていることは知っている。誰もいないようなところでなら、きっと何も咎めはしないだろう。人がいっぱい死に、そしてようやく服を脱ぐことが出来たというのは、皮肉では済まされない度し難いことだけれど、それでも誰かが何かを享受しないことには、このやるせなさも失せてはいかないような気がしていた。


「こんだけの人が死んで、いったい誰の何が報われたんだ」とジョナサンもきっと怒ることだろう。もっとも「それじゃあケイアは、死人を追悼するために全裸になった、変な女じゃないか」と笑われそうな気もする、なんて考えながら、ケリュネイアの夜は更けていく。


 むし熱くて安眠は期待できそうもなく、しかし、また日は昇る。ここだけじゃない。世界中で大勢の人が、それぞれの理由で死んでいる。残された者は、死の存在を肌に感じながら、空が白くなるのを固唾を飲んで待っている。

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