。それは夜半を過ぎた頃だった。ハンセンは暫くの間ぼうっとただ座っていた。そして、ふと立ち上がる。


 何処かで烏の鳴く声が聞こえる。ゆっくりと藁を踏みしめる音が部屋に響く。規則正しいケリュネイアの寝息を確認しながら、ハンセンは仰向けの彼女の上に覆いかぶさる。


 烏の鳴く声が止んだ。

 ケリュネイアの寝息をかき消すように、ハンセンの荒い息が部屋の中に広がる。ハンセンは結局眠れずにいた。昼間の老人の話を思い出していた。彼にとってギンターや村長は問題ではなかった。


 ふと、あどけない表情で安眠するケリュネイアを見た。暗闇に溶けながら、その色褪せることのない確かな造形美は男に毒だ。道中の野営でもそうだった。同じ天幕の中で過ごしている内に悶々とした情欲が湧き上がってくる。一方でケリュネイアは段々と膨れ上がっていくそれに気づく事はなく、無邪気に無防備を晒している。ハンセンは男とはなんて滑稽な生物なんだと悩ましく思った。


 男は女を支配しようと振舞うけれど、その実、生物的な本能レベルで女に支配されながら生きているのだ。究極的に言うなれば、女体の為だけに生まれたと言ってもよいのかもしれない。それ以外の、たとえば仕事で成功することや、恋人とプラトニックな関係を愉しむことや、犯罪を犯すこと、諸々の行いによって得られる欲は、女体で得られるそれの代替えに過ぎないのかもしれない。


 ハンセンはケリュネイアのその美貌と色香を傍で感じている内に、己の矮小さを知った。最初はその寝姿を見ているだけで済んでいた。あとは此方で精を吐き出してやれば、何も悪い事はない。


 しかし、ケリュネイアはそうもいかない程に美しいのだ。


「なんて美しいんだ……」


 ハンセンは静かに呟くと、壊れ物を触るような手つきでケリュネイアの胸元に手を置いた。豊満なそれは片手では収まりきらない。下半身が急速に熱を帯びる。脳が溶け、くらくらする。起こさないようにゆっくりと柔らかさを堪能する。貫頭衣の胸元から手を差し込んで直に触る。


 若さくる吸いつくような弾力と母のような包容力がある。ハンセンは不安に駆られていた。この村に立ち寄ったのは商人としての、またとしての損得勘定が故である。しかし、老人に聞いた話がどうも引っ掛かる。何やら自分の意図すらも超えた事態が訪れる気配がある。


 朝まで待っていたら遅いと勘が告げている。内心の焦りとともに胸元の手の動きは荒々しくなっていく……。ケリュネイアは野生の民である。そもそも人の気配に対しては誰よりも敏感だった。


 自分の領域に足を踏み入れた存在を認知出来ないわけがない。一年とはいえ、無事に旅を続けられている理由はちゃんとある。その一つが無邪気なほどの危機察知能力にあった。


「何してるの」


 ケリュネイアは淡々と言った。いつしか瞼を開いている。ハンセンは声も出なかった。瞬時に自分が何をしているのかを理解する。ハンセンの身体が石像のように固まる。だが人間であることを証明するように脂汗が浮かび上がってくる。それは顔、首元、背中、股間や足の裏に至るまで隈なくである。


「随分汗をかいているね」

 ケリュネイアの声音はやはり淡白だった。

「それは兎も角、君は何をしているの」


「そ、それは……」


 ハンセンは何も言う事が出来なかった。問われるまでもないからだ。ハンセンは疑いようもなくケリュネイアの胸を揉んでいた。いわゆる強姦に違いない。本番に至っていないにせよ、それは罪深き行いであるのは言うまでもなかった。ケリュネイアもハンセンも、それをよく理解しているからこその問答だった。ケリュネイアは小さく一息して「何も言わなくてもいいから手を離して」と言った。


 その時ようやくハンセンの硬直も溶け、尻もちをつきそうになりながら、ケリュネイアを包む藁の上から退いた。冷えた床に汗が飛び散る。ケリュネイアは起き上がって身だしなみを整えた。


「あんたが悪いんだ」

 ハンセンは言った。


「どうして?」


「俺の横で胸元をはだけさせていた」


「だから何だって言うの」


「まるで商売女だった」


「寝ている間に胸元がはだけていたから商売女だってこと?」


「胸を触られても恥じらいすらないんだ。違ってたって似たようなもんだ」


 ケリュネイアは小さく首を振った。ハンセンに背を向けて横になる。ケリュネイアにとってはよくあることだ。付き合っていたらキリがない。ハンセンにもう一度襲えるほどの度胸はないだろう。


「待て、待ってくれ……」

 ハンセンは突然慌てたように言った。


「悪かった。許してくれ」


「いいから」


「魔が差したんだ」


「だからいいって」


「よくない。俺ぁよくないことをした」


「よくないことだけど、よくあること。私は商売女じゃないけど、私をそういう目で見る人にはいっぱいあった。ハンセンも同じだっただけ。別に気にしてない……ただ、旅の間もなかったから、しない人だとは思ってた」


「お嬢さんが美しすぎるんだ」


「……」


「本当にすまない」


「明朝に起きるんだから早く寝て」


「寝れないんだ」


「そう」


「不安なんだ」


「そう」


「よくない事が起きる」


「……そう」


「ギンターは賞金首だ」


 ケリュネイアは寝返ってハンセンを見た。


「どういうこと」


「ギンターは賞金首なんだ」


「思いだしたの?」


「元々知ってたんだ。賞金首のギンターがいることは」


「よく分からない」

 ケリュネイアは再び起き上がった。

「言っておくけど、私はジョークに詳しくない」


「ジョークじゃない。ギンターはあの街で殺人を犯した賞金首だ。デット・オア・アライブってやつ。知ってるだろ」


「ほんとうに?」


「ああ」


「やっぱりよく分からない」


「〈飛鹿ヒジカ〉にならよく分かる筈さ」


 ケリュネイアはピクリと眉を動かした。その言葉を聞いて瞬時に理解する。


「私にギンターの首を取らせようと……」


「ああ」


「最初から? だから声をかけたの?」


「それは違う。最初は本当に危険だと思ったんだ。少女が一人で街の外を歩くなんて馬鹿げてる。気付いたのは出会った日の夜だ。薪を集める速度が少女のものとは思えなかった。だから観察したんだ。噂に聞く〈飛鹿〉と特徴が一致した。兎に角足の速い少女の賞金稼ぎがいるって噂。そしてその賞金稼ぎは美しいらしい。絶対お嬢さんの事だと思ったね。そうと決まればこりゃ運が良い」


「こんな小さい少女を頼りに賞金首の元にやってきたって言うの?」


「俺も一応賞金稼ぎの端くれなんだ。それなりに戦える」


「商人なのに?」


「商人の前は傭兵だった」


「戦場に出たの」


「一回だけだ。でもそれで引退した」


 これは蛇足だ、とケリュネイアは思った。


「君の経歴は別にいい。つまり賞金首一人に対して賞金稼ぎ二人だったら危険も少なくお小遣いが手に入るから、急遽この村に立ち寄ったってこと?」


「そうだ」


「急にそれを話したのは何故」


「事態が変わるからだ」


「私の寝込みを襲ったのは」


「魔が差したんだ。悪かったと思ってる」


「男はヤレたらラッキー、無理なら謝ればいいと思ってる」


「そんなことはない」


「うそ。みんな簡単に触ってくる」

 ケリュネイアはやれやれと肩を竦めた。


 まさかこんな話になるとは思わなかった。ケリュネイアは何も無条件に人を信じたりはしないけれど、まさかこんな話になるとは思わなかったのだ。それはそれで別に構わないにしても、一杯食わされたのだから当然腹がたつ。素性だって別に隠していないのに、勝手に暴かれたというだけで何故こうも居心地悪い思いになるのだろう。いい勉強になった、ケリュネイアはため息をついた。


「事態が変わるってなに」


 ケリュネイアが聞くと、ハンセンは神妙に「ギンターには盗賊団との繋がりがあるのかもしれない」と言った。ケリュネイアもまた老人の話が過る。あの話に出てきた盗賊団の動きは確かに不自然だ。しかし、流石に判断材料が乏しすぎる。一年前の出来事で、なおかつ老人の主観で出来上がった話だ。眉唾物である。何にせよ、夜は行動出来ない。それはギンターや盗賊団も同じ筈だから、もし事実にしても、明朝に出たら十分間に合うだろう。森の中にも盗賊団らしき気配はなかった。


「今から出た方が安全かもしれない」

 ハンセンは言った。


「危険だよ」


「ここにいても危険だ」


「憶測上ではそう。でもまだ何も起こってない。この村で起こっているのは、ありふれた辺境の農村の実態だけ」


「もしも、を考えるのが商人だ。朝起きてここを出たら盗賊に囲まれてた、なんてことになった日にゃお嬢さんを死んでも恨むぜ」


「分かった。私は明朝立つ。君は今から出ていけばいい」


「奴等に襲われたらどうする」


「なんとかする」


「なんとか出来るわけないだろ」


「出来るかもしれないし、出来ないかもしれない」


「死ぬかもしれないんだぜ」


「死ぬときは死ぬ。それで構わない」


「イカれてやがる」


「強姦魔に言われたくない」

 ケリュネイアはうんざりして言った。

「私は兎に角寝たいの。早起きだから。邪魔しないで」

 今度こそ起き上がらない決心をして横になった。


「……悪かった」


「だから気にしてない」


「本当に悪かった」


「君は商人に向いていないみたい。根が一般的男性の善人だから、商人としてのあくどさと変に拮抗し合っている。二面性を使い分けるのはむつかしい。状況に応じては相反してしまうから」


 ケリュネイアはゆっくりと目を瞑った。

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