③
次の街に着く前に、小さな村に立ち寄った。
ハンセンは
食料の補充もそうだ。常に余裕を持つのがハンセンのポリシーである。商売においてもそうだったし、ケリュネイアの面倒を見ているのもその一環だった。街の外を歩く少女を見た時、余裕のある男だったらどうするのか、という自問に対した自答が今現在に至っている。
実際にそうしてやってきて人脈を作り上げているのだから、目先の得より徳を取るようなそのやり口は、ある種の理に適っているのかもしれなかった。ケリュネイアとの繋がりがどう実るのかは定かではない。少なくとも一つ、ハンセンにとって道中が彩りのあるものになっているのは間違いなかった。そして……商人は魂胆の中に魂胆を潜ませるのだ。
形式的な、木製の小さな門を潜り抜けて村に入る。門番はいなかった。
その門から緩やかな一本の坂道が続き、その左右には
「馬小屋があるか聞いてくるから待っててくれ」
「分かった」
足早に田圃の先に向かっていくハンセンの後ろ姿を、ケリュネイアは御者台からぼんやりと眺めた。通りを曲がって見えなくなったあとは、やはりぼんやりと田圃を眺める。
ケリュネイアがうとうとし始めた頃にハンセンは戻ってきた。どうやら馬小屋はあるようだった。ただ、宿はないらしかった。代わりに村長さんの宅で寝泊まりさせて貰えるように話をつけていた。
馬小屋も村長宅の傍にあるらしく、馬車を曳いてそこに向かった。村長宅は掘っ立て小屋ではなく、立派な石造の家だった。ケリュネイアは首を傾げる。ハンセンは彼女の疑問を元々知っていたかのように、その立派な石造の家を眺めながら「よくあることなんだ」と言った。
「よくあること?」
「集村なら自治形態もしっかりしているだろうが、こういった辺鄙な所にある小さな村では法も在って無いようなものなんだな。力のあるものが幅を利かせられる。村人たちが必死に汗水流してこさえた農作物は、そのまま貯蓄となるにせよ、あるいは我々商人と取引をして何らかの利益に変えるにせよ、それが何処にどれだけ収まるのかは、この家の主人が決定することになる」
「自分の分け前をどれだけ増やしたって構わないってこと?」
「そうだ」
「そんなことしてもいいの?」
「駄目さ。そりゃあ駄目。でも村長には力がある」
「力がある」
ケリュネイアは言葉を反芻した。
その「力」という言葉は、旅をする先々で聞いた言葉だった。
村長宅の隣に馬車を停め、ハンセンは馬だけを馬小屋へと連れていった。ケリュネイアも御者台から降りて待つ。
村長宅は見晴らしのいい高台にあって、村の風景を一望する事が出来る。木々が村を守るように囲んでいる。街道を少し逸れた森の中にあるこの村は、嗅覚の鋭い一部の行商人くらいにしか知られない極めて密やかな村らしい。ハンセンも偶然耳にすることがあったそうだ。
森には獣や盗賊が棲み処にしているし、何よりも正しい道がないから余程でない限り入る者はいない。守っているように見える森が、この村の発展を妨げているのだ。人に知られる事なく、ひっそりと消えてなくなる……。道の先に居た壮年の村人がケリュネイアを胡乱げに見つめている。
「待たせたな」
さて、改めて挨拶に行こうか、とハンセンは言った。
村長宅のドアをノックする。やや間があってドアが開いた。中から出てきたのはケリュネイアの想像とは違った人物だった。初めに目についたのは、鈍く光る鉄の鎧だった。ケリュネイアと似たような貫頭衣の上から物々しいそれを纏っている。露出した手足は隆々とした筋肉が影を浮かばせ、その体躯はおおよそケリュネイアの倍に近いものがある。
畑仕事に力は必要だろうけど、どうもそのような雰囲気ではない。刃物のような目、硬い骨格、無精髭……髪の毛をすべて刈り込んだ頭の横から見えるのは、背負われた戦斧の刃である。
誰がどう見たって男は戦士だった。歳は四十手前くらいだろう。その風格は歴戦のそれを思わせる。ハンセンが静かに息を呑んだ。ケリュネイアは不思議そうに男を見つめる。やはり村長には見えない。
「ああ。商人か」
戦士然とした男は短くそう言った。
その後、顎を傾けて中に入るよう促してくる。
ハンセンはそれに従って一歩踏み入れる。ケリュネイアも後に続いた。部屋の中は明るかった。入口の直ぐ傍の壁に松明が掛かっている。ゆらゆらと赤い火が揺れている。玄関を含めた大部屋が視界に広がっている。
中央には木造のテーブルがあって、そこには六十代ほどの白髪の男が座っている。細い体躯と皺だらけの肌、そしてどうやら絹のローブを羽織っている。その絹のローブは元々が白く美しい姿だったのだろうけど、長年使い古されてきたのか茶色く変色している部分がある。
しかし、このような農村で絹のローブを纏う者がいようなどとは、ハンセンも思わなかった。一般的に、やんごとなき上流階級の方々が使用するものだからである。あるいは羽振りの良い商人か。とはいえ、その男の絹の質はあまりよくない。まだハンセンが商品として持っているそれらの方がマシである。ハンセンがそんな風に陰で値踏みをする中、ケリュネイアはこの男が村長だろうと思っていた。そもそも衣類を好まないのだから、興味がある筈もない。見栄の為に纏っている絹のローブも彼女の前では形無しだった。
「やあ。ハンセンと言ったかな」
村長は静かに言った。
「へえ。本日はお世話になります」
ハンセンも頭を下げて応じる。
「よくきなすったね。この村には誰も来ないんだ」
「我々の間では気のいい村長さんがいると、まことしやかに囁かれているもんでして」
「ほう。そうなのか」
「ええ」
「確かに最近は珍しいことがよくある」
「そうでしょうな……」
人の良い笑みを浮かべながら、手のひらを擦り合わせるハンセン。二人が話している間に戦士然とした男もまたテーブルの一つの席に腰をおろしていた。ケリュネイアはハンセンの斜め後ろに控えてじっとしていた。
「それでよお」
戦士然とした男は肘をつき、薄い目を更に細めてケリュネイアを見ながら、言った。ハンセンとはまた違った、人を畏怖させるような声の通り方だった。
「その横にいる嬢ちゃんは一体誰なんだ」
「ああ……えっと、此方は私の助手でさあ。旅の雑用を任せとるんです」
助手になった覚えはなかったけれど、ケリュネイアを瞬時に理解する。彼女も馬鹿ではない。ハンセンがここではそうするように決めたのなら、立場上それに従うくらいには空気を読むことが出来た。
「助手のケリュネイア。よろしく」
端的にそう言うと、横でハンセンが苦笑を漏らした。
そして戦士然とした男の視線が強くなる。村長は和やかな微笑を浮かべていた。
「変わった名前だねえ。何処の出身だい?」
村長が聞くと「森の中出身」とケリュネイアは答えた。まったく嘘は言っていない。だが村長の表情からも微笑は消えてしまった。その後はハンセンが適当な美辞麗句を並べて尾を引かずに済んだ。
出されたお茶を一杯飲んでから、ケリュネイアは村長宅を辞した。これからハンセンらは商談をするらしかった。
ケリュネイアは邪魔になる。何よりそんなところにいても退屈だから出ていることにしたのだ。暫くの間村の中をぶらぶらとした。四角の田圃の枠の中で撫でやかに揺れる緑色の穂、その端には侘しさを感じさせる藁の人形、黙々と中腰で作業をする老人、道を駆け回る男女の子供……遠い昔の記憶のような、どこか哀愁めいた何かを感じさせるそれは、無性に腹の中を落ち着かなくさせる。
特に何かするでもなく歩き続けていると、いつの間にか村の外に出てしまっていた。来た道を戻ろうと思ったけれど、思い直して森の中に入っていく。森のさざめきが寄り添う。川のせせらぎが何処かで呼んでいる。それはいつもと同じ音だ。しかし、ケリュネイアは不思議な違和感を覚えた。
森がいつもと違う。ケリュネイアは、ざわ、と虫の知らせを感じる。火の粉のようなものが視界を掠めた気がした。
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