②
ケリュネイアを乗せた馬車は緩やかな街道を進んでいた。
主要な都市を繋ぐ街道は巨大な森林群と平原に挟まれている。太陽が丁度頭上にきた頃に小休止を取ることになった。平原の真ん中に馬車を止める。ケリュネイアが荷台から帆を掻き分けて地面に降りると、その瞬間に一陣の風が吹いた。背の低い草葉を撫でるように駆け抜けていく先には森林群の鬱蒼とした側面が構えている。そして晴天の空がある。心地よい陽気が漂う良い日だった。
「さあ。昼飯にしよう」
馬車の手綱を握っていた商人の男がそう言って御者台の上から飛び降りてくる。開けた場所に不思議とよく通る声だった。
商人は三十台前半頃の中年である。
整えられた髭や頭髪と薄い目が特徴的だった。仕立ての良い足首まである茶色のチュニックを纏っていて、黒い脚絆を履いている。首元には翡翠のネックレスを引っ掛け、それは羽振りの良さを表していた。
一方でケリュネイアは生まれたままの……姿ではもちろんない。彼女は簡素な
「荷台は揺れるから、気持ち悪くなる」
ケリュネイアが率直に苦言を漏らすと、商人は「あはは」と苦笑を漏らした。
「次は御者台に座ってみるか?」
「そうしよう」
「長閑な景色が見えるくらいだが」
「見えないよりはいい」
「そりゃそうだ」
商人は手際よく昼飯の準備を始めた。
商人の男はハンセンと言った。ハンセンとは前の街で出会った。昨日のことだ。ケリュネイアは新たな街に向かう為に街道を歩き始めると、ハンセンが声をかけてきた。少女が街の外に出ていることを見咎めたのだ。町の外が危険である事をハンセンはよく知っていた。
とはいえケリュネイアにだって一年間旅をしてきた自負がある。そうした結果押し問答のような状態になってしまい、折衷案ということで共に旅路を進むことに相成った。奇しくも行き先が同じだったのが決め手であった。これはとても稀有なことである。商人とはすなわち金に貪欲であるもののことを指す。馬車に乗せてと言われれば、手のひらを差し出して金をせびるくらいは当然の行いだ。咎められることですらない。それだけに外は危険だという理由だけで馬車に同乗させたハンセンは奇人の類である。ケリュネイアはそんな深く考えはしなかったけれど、本来であれば裏を疑ってしかるべき善行だ。それ程にこの世の中は生きにくい。
「干し肉くらいしかないんだ」
草葉の上に風呂敷を広げてその上に二人分の干し肉とパンと木製の小皿にのせたチーズを並べる。「干し肉くらいしかないんだ」とは言うものの、無賃乗車客にこれだけの物を差し出せば、仰天してひっくり返るくらいだった。しかもこれで二度目だ。昨日の晩もケリュネイアはご馳走になっていた。
なんせ、彼女は何も持っていない。くり抜き瓢箪に入った水が一つ、腰の片手半剣が一つ、馬車の中に置いてある皮袋には着替えや外套、火打ち石、ナイフくらいのものだ。旅をするのに必要最低限を若干下回る程度である。
食料はその時々で調達するのがケリュネイア流だった。そんななりだから、ハンセンが食料を振舞うことになったのである。身なりは兎も角として、ケリュネイアの容姿は異常なほどに優れている。
最早異質と言ってもいいくらいで、その立ち居振る舞いは浮世離れしている。行儀作法に優れている訳ではないけれど(むしろそれは悪い部類だった)何処かの箱入り娘のような雰囲気を感じさせ、庇護欲をそそる対象であることは間違いない。そんな少女が街の外を軽装でのんびり歩いているのだから、ハンセンのように甲斐甲斐しくする大人がいてもおかしくはないのかもしれなかった。罪深いのは、ケリュネイアに温情を受けているつもりがあまりないところだった。
「ありがとう」
とはいえ、礼儀を損じる訳でもなかった。
干し肉もパンを硬かったけれど、こういうのも悪くないなといつも思う。質素な食事には質素である魅力がある。
「申し訳ねえなあ。温かい飯を出せるんなら出すんだが」
「これでいい」
「そうかあ?」
「何を基準にするか」
「ん?」
「美味しいものはいっぱいあるよ」
ハンセンは意味が分からず呆けた顔をした。
「夜は火を焚けるところ探すからな。汁物もある」
昼飯を終えると、暫く草葉の上に寝っ転がって空を眺めた。ケリュネイアが完食した後に自然とそうしたのだけど、ハンセンもそれを興味深そうに眺め、少し離れたところで横になった。空には二羽の鳶が飛んでいた。優雅に舞うように、絡み合うように、空の彼方で見えなくなる。それを見届けるとケリュネイアは立ち上がった。気まぐれに付き合うハンセンも続くように立ち上がる。
「そろそろ進まないと」
「うん」
忘れ物がない事を確認してから、また馬車の車輪が回り始める。
今度はケリュネイアも御者台に座った。視界が開けているというだけで気分が全然違った。馬車の荷台に乗せて貰ったことは今度で二度目である。御者台に座ったのは初めてだった。馬を
ケリュネイアは森で動物と慣れ親しむ生活を送ってきたけど、馬とは人里に降りてから初めて出会った。母が幼い頃に読み聞かせてくれた物語の中に馬が出てきていたから、その存在は認知していたものの、実際にどのようなものなかは分からなかった。初対面の時に思ったのは、とても顔が長いということだ。真正面から見ると馬鹿のようだけど、側面から見ると凛々しく思える。事実、戦士を乗せて力強く駆け抜ける様は圧巻、しかし大きな物音を聞いた時の慄きようと逃げ足もまた真実の姿である。馬という生物には勇猛さと臆病さの二面性がある。
実際に手綱を持ってみるとズシリとした重さを感じた。特に荷馬車は一頭だと引けない場合がある。そういう時は二頭用意する。ハンセンの馬車もそうだった。荷台には沢山の商品が乗っている。とはいえ、扱うものが布製品ばかりであるから重さはそれほどなくて、どちらかといえば行軍の速度を上げるためであろう。手綱に馬二頭分の体重がかかっているというわけではないだろうけど、少なくともケリュネイアのような少女が上手く操れるほど生易しいものではなかった。
そんな風に時を過ごしている内に、あっという間に夕方になった。夜中は宣言通りに焚火をするから、ケリュネイアは薪を集める役を担った。抱えられる精一杯の薪を集めるとハンセンの元に戻った。
ハンセンは天幕を張ったり、鍋や食材を広げて晩飯の支度をしたりしていた。昼飯に木の実や山菜を香辛料で煮込んだスープを追加した食卓を囲み、昔話に花を咲かせながら、夜を明かした。街の外は盗賊やら何やらに襲われる危険性がある。交代制で見張りをした。
特に何かが起こる事もなく、また日は昇る。
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