ケリュネイアが故郷の森を出たのは、今から一年ほど前の事になる。


 何時ものように、あの唄を動物たちに聞かせていた時、ふと「旅に出よう」と思った。ケリュネイアは十五歳になっていた。


 元々そういう算段があったわけではない。助言を授ける存在がいない中、そう決意する事が出来たのは、ひとえに彼女の知的好奇心に感謝する他ないだろう。出なければ、彼女は未だに同じ生活を続け、そしてそれを永遠に続けていたのかもしれない。そうなる未来だってきっとあったはずだ。度し難いことにそれはそう悪いものでもないのである。


 ケリュネイアの一日は極めて自然の摂理に則っている。あるいは、これこそが人としての真に在るべき生き方なのかもしれない。


 これはある日のことだ。


 日の出とともに目覚め、朝焼けの光で煌めく湖の畔で水浴びをし、貯蓄してあった肉や山菜を煮込んだ朝食を食べる。腹ごなしに森の中を走り回る。森はずっと続いているかのように広大だったけれど、彼女にとっては庭である。そして昼間になると、唄をうたう。動物たちと戯れる。そして生きていくための狩りもする。日の入とともに床に就く。


 まだケリュネイアが小さい頃に父が建てた小屋があるのだ。そこでわらにくるまって眠る。もちろん、その日の予定は彼女の気分次第ではあるものの、概ね似たような毎日を送っている。


 森に住まう動物たちと何ら遜色のない野生の人生。それには雄大な自然が寄り添っている。人は自然を無条件に忌み嫌うから、彼らの懐の大きさを知らない。そしてその美しさも。


 ケリュネイアは自然をよく理解していた。冷たい水に包まれながら、煌めく水面越しに見る朝日の姿は一切合切を一緒くたにする。

 世界を明るく照らし、見る者の憧憬しょうけいを得る。善人であれ、悪人であれ等しくそれは享受される。理性や本能でさえも超越する。語るよりも雄弁であり、それは一生を預けるに足る景色なのだ。


 それなのに、何にも代えがたいそれを捨ててまで旅をしようと思ったのは、それを上回るほどの退屈さを彼女が感じていたからだった。


 美しい景色も千回見れば色褪せる。本来であれば一生を預けるに足るものが、ふとした瞬間に足りなくなる。

 それが人が持つ業の一つであった。極めて自然的なケリュネイアでさえ、それは例外ではなかった。恐らくは幼い頃に施された両親の教育の影響もあっただろう。なまじ世界が広い事を知ってしまった。言語も操れるようになった。生きる術を、生きる知恵を覚えた。研ぎ澄まされていく知性がケリュネイアをあの森に留めておかなかったのである。それは仕方がない事だ。旅をするということもまた、度し難いことにそう悪いものでもないのだから。


 決意をすると後は簡単だった。


 彼女は身一つで生きてきたのだから、必要な支度も特になかった。そしてケリュネイアは思い切りの良い性格だった。決意した次の日には、森の友人たちに別れを告げ、あっけなく旅立った。


 少し肌寒い日で、しかし、空は雲一つない晴天だった。


 それから人と出会うまでは三ヵ月の時間を要した。


 ケリュネイアが住んでいた森を抜けると、また別の森があった。その後にもまた別の森が。得意な環境であっても、流石に初めての場所ではどうしようもない。彼女は散々迷った挙句(生きていくのには、持ち前の野性的生活力で苦にはならなかったが)三ヵ月かけて街道を発見したのだった。


 それが街道であることすら知らなかった当時だけれど、人としての本能か明確な道があるなら、そこを歩きたくなるものだ。彼女は整理された街道を唯ひたすら歩き続け、そうして旅人のと出会ったのだった。ジョナサンは珍しく女性の旅人である。浅黒い肌と長身、そして商売女のような淫靡な雰囲気を持った人だった。


 ジョナサンはケリュネイアに何も話すことはなかったけど、実際旅の路銀に困ると身体を売る事もあったから、当然と言えば当然なのかもしれない。ケリュネイアにとって初めて見た家族以外の人間であったから、彼女の中でその淫靡さは母性へと変換され、妙な愛着を出会った瞬間に抱いていた。


 物怖じしない性格でもあったから、そしてそれはジョナサンもであって(ケリュネイアのそれは先天的なものだが、ジョナサンのそれは旅をして生きてきた自負に寄るものである)打ち解けるのにそう時間はかからなかった。


 ジョナサンは面倒見がよく、ケリュネイアの生い立ちを慮ってあれやこれやと物を教えてくれた。


 一年で人の世に慣れる事が出来たのは、偏にジョナサンのお陰だった。そのジョナサンとは森を出て半年経った頃に別れた。だった。身体を売った男が凶悪殺人の指名手配犯だったのは不運な話である。もちろん、ケリュネイアは確かな死因を知らない。


 幼い彼女が傷つかないために擁護されたのだ。ジョナサンは流行り病で死んだということになった。それから半年間は一人であっちこっちの街を見て回った。美味しい食べ物や美しい景色を求めて旅をつづけた。世界は何処までも広く、果てがない。あっという間の一年間だった。

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