Aパート 2

「恐れながら姫様……こちらと、こちらと、こちらに書き損じがございます」


「あら、ごめんなさい」


 王城ラグネア内に存在する巫女姫専用の執務室……。

 そこで愛用の執務机に座り、ぼんやりと書類仕事をしていたティーナは書記官の言葉でハッと我に返った。


 差し出された羊皮紙を見やれば、なるほど複数個所に渡って書き損じがある上に、文字そのものも常の見栄えがないことに気づく。

 立憲君主制であるレクシア王国とはいえ、国の象徴たる巫女姫ともなれば時には机に向かい、筆を走らせ判を押さねばならぬ時がある。


 今挑んでいるのは、クモ男討伐の際に破壊した空き邸宅の補償に関する書類であり、これは陣頭指揮を執ったのがティーナ自身であるだけに、きちんと仕上げなければ体裁が悪かった。


「姫様、これを」


「はい」


 新たに差し出された羊皮紙には、すでに書記官の手で主要な文面が記されている。

 ガラスペンを走らせ必要事項を書き込み、これを渡すが……またもや書記官の顔が曇った。


「姫様、誠に申し上げにくいのですが……こちらにも書き損じがございます」


「あ、あら……ごめんなさいね」


 返された書類を見直してみれば、先ほどと全く同じ書き間違いをしでかしてしまっている。


「恐れながら申し上げれば、少し休憩を取られるのがよろしいかと」


「ええ、そうね。誰か侍女に言ってお茶を用意させてください」


 主の命令を実行するべく、一礼して書記官が退室していくと、誰にも見られていない気楽さで大きなため息をついた。


「駄目ね。こんなことでは……」


 誰に見られても恥じることのない、綺麗で見やすい文書を作ると言うのは、これがなかなかの難事である。

 気もそぞろな主のために、これを何度もやり直させられている書記官を思えばあまりに気の毒であった。


「筆と算術は子供たちの未来を開く……か」


 ティーナがつぶやいたのは、勇者ショウが孤児院で教鞭を執るにあたって言った言葉であるが、これは何も大げさなことではない。

 退室した書記官のように王室で直々に仕事をするまで出世するのは大変であるが、海上貿易がますます盛んなレクシア王国において筆と算術が達者な者の需要は大きく、そういった職種に関しては出自をある程度度外視しているのである。


 享楽きょうらくのために使ったところで誰も文句を言わぬであろう私費を投じ、国の未来を担う人材を育てようとしているイズミ・ショウこそ異界から渡り来た誠の勇者であり、また賢人であると言えた。

 しかし、その勇者こそが今のティーナを悩ませている元凶でもあるのだ。


「そんなことを言う人が、魔人王とつながりがあるなんて……あるわけないよ、ね」


 誰に向けたわけでもない問いを、吐き出す。

 脳裏に思い浮かぶのは、先日ついにその姿を現した魔人王だ。

 何から何まで、全てがふざけたような男であったが、身に宿す闇の魔力は伝承通りの……いや、それ以上に恐ろしい身も凍るようなものであった。

 何より、忌むべき魔人王が変身したあの姿……。


 ――ホワイトホッパー!


 あれはまぎれもなく、ブラックホッパーの白き写し身だった。

 姿形だけではなく、その戦力に至るまでも、だ。


 ――兄弟。


 魔人王はふざけながら、そう口にしていた。

 ホワイトの戦いぶりを見れば、その言葉が文字通りの意味だったとしても驚くにはあたらないだろう。


 ――一体、これはどういうことなのか?


 魔人王が去った後、夕陽を背にたたずむブラックホッパーへ、誰もがそう尋ねようとした。

 ……しかし、それを口にすることはなかった。

 彼女たちの勇者に対する信頼はそれほどまでに絶大なものであり、きっと何か事情があるのだろうと理解していたからである。


 ――しばらく、一人で考えさせてほしい。


 ……だから、変身を解きティーナから魔法による治療を受けながら言った勇者の言葉を、信じることにしたのだ。


 幸いだったのは、スタンレーを始めとする他の騎士たちが魔人王の手で気絶させられていたことで、彼らには魔人王がホッパーへ変身したことは伏せ、ただ勇者と一戦交え撤退したとだけ伝えてある。

 あの場に参じたのは竜への騎乗資格すら持つ精鋭たちとはいえ、秘密というのは知る者が少なければ少ないだけ良いのだ。


「勇者様は、今日も釣り糸を垂らしに出かけられているということですが……」


 窓際へ歩み寄り、外の景色をうかがう。

 ちょうどこの窓が向いているのは港湾部の方角であり、瞳に映る景色のどこかで素性を隠した勇者が釣り竿を振っているはずであった。

 ここ数日、ショウは孤児院での授業以外の時間は毎日港へ出かけている。

 当然ながら、釣果ちょうかを期待しての行動ではあるまい。


 普段は冷静なイズミ・ショウが、ティーナにすらそれと察せられるほどに動揺していた……。

 今はただ、母なるレーゲ海と向き合うことで勇者の心が癒され、その思索が良き結論へたどり着くことを願うばかりであった。


 ――コン! コン!


 ……と、執務室の扉を叩く音が聞こえたのはその時である。


「お入りなさい」


「失礼……します……」


 ノックの主は、新人王宮侍女であるヌイだった。

 彼女もまた、魔人王がホッパーへ変身する様を見た目撃者であり、普段は仮面でも付けているかのように無表情な顔へ緊張の色を漂わせていることから、何かがあったのだと察せられる。


「ショウ……様が、ご帰還されました」


「そうですか」


「今夜……ヒルダ様とレッカ様も交えて……お話がしたいそうです」


「そう……ですか」


 ヌイの言葉に、きりりと顔を引き締めた。

 どうやら……。

 来るべき時が、来たようである。

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