Aパート 2

 王宮侍女サーシャはその日、今までになく重い足取りで朝食の膳を運んでいた。


「はあ……」


 まだ一日が始まって間もないというのに、一体これは今日何度目のため息であろうか?

 侍女といっても、王宮のさらに奥……やんごとなき人々が居住する区画を任されている彼女だ。

 本人の出自も上流貴族の娘であり、常ならばこのような姿は人目がなかろうと見せることはない。

 それが今日は、はしたない真似を止められない。


 サーシャに本日任されたのは、貴賓室に滞在する客人の世話である。

 王室区画の貴賓室に寝泊まりしているということはすなわち、その人物が他国の王族にも匹敵するほどの要人であることを意味していた。

 だが、それが重圧なわけではない。

 そのような任であれば、幾度となくこなしてきたのがサーシャという少女だ。

 普段ならばむしろ、大任を任された誇りを胸にラグネア王宮侍女として堂々たる姿を見せていた。

 だが、此度こたび滞在している人物は通常の要人とはいささか性質が異なる。

 性質が異なるだけならば、まだ良かっただろう。

 噂話でしかそれを聞いていない他の侍女と違い、その形質すらも実は違うことを、サーシャはあの日遠目に見てしまっていたのだ。


「……着いちゃった」


 いっそ永遠に廊下をさまよっていられればいいのに……。

 そんな風に考えていたサーシャであるが、よく訓練された侍女の足は膳が冷めぬうちに最適の歩幅で貴賓室へとたどり着いてしまう。


「――失礼します。

 朝食をお持ちしましたが、お部屋に入ってもよろしいでしょうか?」


 となれば、もはや覚悟を決める他にない。

 意識して声音から緊張を取り除きながら、扉越しに声をかけた。


「――ああ、大丈夫だ。

 どうぞお入りなさい」


 いっそ返事も出来ぬほど眠りこけてくれていれば良いのだが、すでにこの任を担当した侍女から聞いた通り恐ろしく寝起きは良いらしい。

 快活な声で、承諾の旨が伝えられる。


「――失礼します」


 許可を得て部屋に入ったサーシャが最初に見たものは、


 ――本の山。


 ……である。

 雑然と散らばされているわけではない。

 むしろ見てみれば、本の内容や使われている文字の難しさに応じて、分類し仕分けされているのがうかがえた。

 とはいえ、いかに整頓されていようとこれだけの冊数を揃えていればそれはもう山と例える他にない。


 冊数がかさばっているのには訳がある。

 本の種類が、あまりにも雑多なのだ。

 子供向けのおとぎ話を記したものから、最新の算術に関するものまで……。

 ここに滞在している人物の趣味嗜好が読み取れぬほどに、幅広く集められているのである。


 何より脅威的なのは、滞在当初は字が読めなかったはずなのに数日でそれを習得し、集めた本全てを読み終えてしまっているということだろう。


「やあ、おはよう」


 その人物――イズミ・ショウは窓辺で朝日を浴びながら、穏やかにそう告げた。


 こうして日の光に照らされている姿を見ると、ごく当たり前の青年である。

 この国では珍しい艶やかな黒髪といい、精悍な面構えといい、隙の無い身のこなしといい……男を見る目が肥えているサーシャからしても美男子といって差し障りない。

 当初身に着けていた恐ろしく縫製ほうせいの緻密な装束は預けられており、今はティーナ姫から賜ったこの国の衣服を着ていた。

 戦士階級の者が好んで着る様式のそれはショウによく似合っており、これで帯剣でもしてみせれば一端いっぱしの騎士として通ることだろう。


 普段ならば眼福として失礼にならぬ範囲で網膜に焼き付けるであろうサーシャだが、この人物に関しては心底の震えを抑えながら接さねばならぬ。


「こちらが本日の朝食になります」


 彼女が運んできた膳の内容はといえば、庶民的なスープとパン……そして季節の果物を美しく盛り合わせたものであった。

 謙虚なのか貧乏舌なのかは分からぬがあまり豪勢な食事を好まぬらしいショウが、最も喜んでいたというのが甘味であり果物なのである。


(……さもありなん、だわ)


 同僚たちからそれを聞いた時、サーシャはそう思ったものだ。

 姿となるのだから、そういった品はさぞかし舌に合うことであろう。


「やあ、今日の朝ご飯もおいしそうだ」


 それは、不意打ちであった。

 通常、この貴賓室に泊まるような人間は膳を自分で受け取るような真似など決してしない。

 だがショウは、それをごく自然に……息をするかのようなよどみなさでおこなってきた。


「あ……」


 だからサーシャは反応が遅れ、伸ばされた手の指と膳を持つ指とがごくわずかに触れ合ってしまったのである。


「ひっ……!?」


 その瞬間、脳裏を閃光のように駆け巡ったのは数日前の光景だ。

 戦場そのものとしか言えぬ城内において、伝説の魔人を一方的に屠った異形の戦士。

 ごく普通の指が触れてきただけなのに、まるで宙を飛ぶ昆虫が止まってきたかのような強烈な嫌悪感にサーシャは襲われた。

 そしてその結果――常ならばありえないことだが――彼女は手に持っていた膳を取り落としてしまったのである。


 ――がしゃり。


 ……と、床に料理を食わせる音が鳴り響く。


「あ……あ……」


 一瞬の間は自分が何をしてしまったのか理解できず、しかし遅れてその自覚がやってくる。


「も、申し訳ありません!」


 ようやく脳の処理が現実に追いつき、サーシャは大慌てで頭を下げた。

 この貴賓室に宿泊するような人物への無礼は、すなわち大罪である。

 場合によっては死をもって償わねばならぬほどの粗相を、自分はしでかしてしまったのだ。


「いや、いいんだ……。

 それより、はねたスープで火傷などしていないか?」


 だが、ショウは怒りの色など一切見せず。

 ただ少しだけ寂しそうな顔になりながら、むしろサーシャを気づかってみせたのである。

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