第23話「恋華の夢」
俺の足は、自然と恋華の部屋へと向かっていた。
部屋に着き、俺は深呼吸をしてから扉をノックする。数秒待つと、ガチャっという音と共に入り口が開け放たれた。
扉の向こうにいたのは、部屋の主である恋華だった。
「あら、さっきコンシェルジュから調子悪いって連絡があったけど、大丈夫なの?」
「ま、まあ……一応な」
「ふぅん、そうなの。少ししたら私の方から行くつもりだったけど、杞憂だったみたいね。ほら、入りなさいよ。私、紅茶が飲みたいわ」
「ああ、いつものやつな」
部屋に入り、俺はすぐ恋華の好きなアールグレイを準備した。
恋華は棚からホテルの特集記事がまとめられた雑誌を取ると、テーブルの上に見開いたまま置いた。
俺がテーブルまで紅茶を運ぶと、恋華は話したい要所を指差しながら言った。
「颯斗、これは列車ホテルよ。車両そのものが宿泊施設になっていて、電車の旅をしながら中で料理やワインを楽しむことができるの。どう? 中々面白いでしょ!」
「え……あ、ああ……そうだな」
急にこんなものを見せてきて、いったいどういうつもりなんだ?
まさか語る相手が欲しかったとか、そんな感じだろうか。
「知ってる? 友恵は列車ホテル嫌いなのよ?」
「嫌い? 総支配人にも嫌いなホテルってあるのか」
「うーん、というよりは自分が目指してるものと違うってことじゃない? けど、私はこういうホテルも好きよ、夢があって素敵だと思う」
「まあ、意外性はたしかにあるかな」
そこで、会話が止まってしまった。
数秒、部屋が静寂に包まれる。
それを破ったのは恋華だった。
「ごめん、颯斗。こんな話されても……つまんないわよね」
「えッ! いや、別にそんなこと……」
「いいの、わかってるから。ホテルのことが大好きな女の子って、普通に考えて変だもんね。でも私、これしか好きなことないから。他にどんな話してあげればいいかわかんなくて」
もしかして恋華は自分なりに、俺のことを元気付けようとしてくれてたのか?
俺の態度や雰囲気から、まだ調子が悪いんじゃないかって察して、それでこんな話を。
バカか俺は。お客様に気を使わせて、それじゃホテルマン失格じゃねーか。
無性に、自分に腹が立った。
無駄に時間を浪費して、追い込まれてから焦って。総支配人が与えてくれた時間を、恋華が教えてくれたことを、俺は何一つ活かしきれていない。
今一度知りたい。教えてほしい。
恋華の思うホテルを。
「なぁ、恋華……ずっと気になってたんだが、どうしてそんなにホテルが好きなんだ? 俺、まだ見つけられないんだ。俺がこのホテルでやりたいこと……夢が」
「ホテルでの夢……か。もしかして、それで悩んで調子悪くしてたの?」
俺は無言で首を縦に振った。
「なーんだ……ふふ、心配して損しちゃった。あははは、良かったぁ」
恋華は妙に嬉しそうに、けらけらと笑った。
「別に、無理して見つけることもないんじゃなくて? そういうのって普通、自然とわかるものじゃない」
「や、やっぱ……そうだよな」
俺は気づけてないのか、結局。
「あッ! で、でもね、ホテルってのはもうそりゃあたくさん仕事があるわけよ。きっと、まだ颯斗が巡り会えてないだけかもしれないわ!宿泊部に飲料部、それにブライダル、ホテルにはそれだけ多くの職種があるの! 特にブライダルなんて、私にとっても夢みたいなものよ」
「それって、どういうことだ?」
「さっきあなたが聞いてきたじゃない。どうしてそんなにホテルが好きなのかって。私がホテルに憧れたきっかけは、ホテルで開かれた結婚式が始まりなの」
「結婚式? それって、親戚のか?」
「ええ。私の実家は裕福だから、親戚も資産家とかが多いの。ちょうど、私が小学生になった頃だったかしら。都内でも有名な一流ホテルで、豪勢な結婚式と披露宴が行われたの。その時、私は感動したわ。まるで、夢の国に迷い込んだような気分だった。何もかもが私の心を刺激したわ。結婚式の後、そのホテルで数日過ごしたのだけれど、私の興奮は収まらなかった。それどころか、日を重ねるほどにそれは強くなっていたの。それで色々調べたりしてたら、もうホテルにハマっちゃてた。気づけば、家を出てホテル暮らしを始めるくらいにね」
「いったい、何がそこまでお前を……」
「多分、憧れからだと思う。あの時見た、美しい花嫁への。私もいつか、ホテルで素敵な結婚式をあげたい。それが私の夢」
「それが、恋華の夢なのか」
「そうよ。ふふ、子供みたいでしょ。これじゃお嫁さんになるのが夢って言ってるようなものよね」
たしかに意味合い的には同じだな。恋華の場合は、それを初めて見たホテルという場所が、彼女の人格形成に大きな影響を及ぼしたようだ。
対して俺は、まだ何も得られていない。
「なら颯斗が私の夢を叶えてくれるっていうのはどう?」
「俺が、恋華の夢を? え……そ、それって……まさか俺と結婚したいとか、そういう意味?」
「なッ! ち、違うわよ! 変な勘違いしないでよね! 颯斗、マジキモい!」
恋華は顔を真っ赤にして立ち上がり、ばたばたと手を振った。
さすがに俺も冗談で言ったつもりだったのだが、少し言い過ぎでは。キモいは普通に傷つく。
「まだ付き合ってもいないのに! 颯斗ってば気が早すぎよ! ま、まあ、そういうのはもっと時間をかけて……ゆっくり考えてからね。って、今はそういう話をしてるんじゃないの! は、颯斗に、ブライダルコーディネーターの仕事をやってもらいたいのよ!」
「ぶ、ブライダルコーディネーター?」
俺もこのホテルで働いてしばらく経つ、その役職の意味は、既に理解していた。
このグランドホテル・ヘブンにも宴会部ブライダル課が存在している。主にお客様の結婚式や披露宴のサポートを行う仕事だ。
「颯斗がブライダルコーディネーターになって、私の夢を叶えるの。何も結婚式っていうのは、新郎と新婦の二人だけで作れるものじゃないよの。ホテルのブライダルコーディネーターがいて、初めて成立するんだから」
「でも急にそんな、今までずっと宿泊部で頑張ってきたのに」
「そりゃ、仕事は全然違うけど。颯斗ならできる気がするの。ふふ、私の買い被りかもしれないけどね。でも、人を幸せにする仕事って、素敵だと思わない?」
恋華はにっこりと笑った。
買い被りであっても、信頼されているという事実は嬉しかった。途端に、自信が湧いてきた。
ったく、その笑顔はずるいだろう。
俺の心は、一瞬のうちに奪い取られた。
「恋華……俺、お前に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「へ、急にどうしたの?」
こんなにも俺のことを気にかけてくれている人に対して、卑怯なままでいたくなかった。
恋華の気持ちに、嘘をつきたくなかった。
「初めて会った時、恋華は俺に告白されたって思ったみたいだけど、あれ違うんだ」
「え?」
「告白とか、そんなんじゃなくて、ただ単に褒めただけなんだよ。でも、お前はそれを告白だと勘違いしてて。それなのに俺、それを知ってて何も言わなかった。それどころか、つけこもうとまでしてた。本当にごめん!」
俺は絨毯に額を擦り付けた。
別に許してもらいたいとか、話して楽になりたいとか、そういう気持ちじゃなかった。ただ、恋華に改めて伝えたかった。俺の、今の気持ちを。
「恋華は何もやりたいことが見つけられずに立ち止まってた俺に、本気で向き合ってくれた。だから、もう目を逸らしちゃいけないって思ったんだ」
「……バッカじゃないの」
頭の上から降ってきた言葉は、罵倒だった。
甲高いアニメのキャラクターのような、明るくて、可愛い声。
何故か罵られているようには感じられなかった。
その声に込められた感情は、侮蔑というより、賞賛のようだった。
俺はゆっくりと顔を上げ、恋華の顔を見た。
笑っていた。とても無邪気に。
「あれが私の勘違いだってことくらい、とっくに気づいてたわよ。でも、途中から本当にあなたのことを意識するようになって、私わかったのよ。本気で、颯斗のことが好きなんだって。だから、あなたが気にすることなんて何もないのよ。全部、私が勝手に勘違いして、勝手に解決したことなんだから」
その瞬間、俺の背中に重くのしかかっていた十字架が、やっと下ろせたように感じられた。肩は軽く、気持ちも晴れていた。
恋華は腰をかがめ、俺の両頬を手のひらで挟んだ。
「私は、あなたのことを最高のホテルマンだと思ってるわ!」
恋華は宝石のような瞳で、俺をまっすぐ見つめた。頬を掴まれて、逸らすことができない。この目は卑怯だ。
俺は思わず目を瞑ってしまう。
「あッ! ずるい! 人が本気で告白してるのに! 目開けなさいよ!」
無理だ。
今その目で見られたりしたら、本当に落ちてしまう。
「颯斗、目開けないと……す、するわよ?」
「え、するって……な、何を?」
無意識に、目が開いた。
その瞬間、至近距離まで顔を近づけていた恋華と目が合う。
その顔は、今までにないくらい嬉しそうだった。
「あ、やっと目開けた。ったく、ジゴロなんだから……颯斗のバカ」
「お前、マジでずるいだろ。告白とか、俺が断れるわけないじゃん」
「ふふ、なら良かったわ、初めてだったし。ていうか、私を振るとか本当に男なのか疑うレベルだったもの」
恋華は平然と言ってのける。その自信には、俺も尊敬の念を抱かされるよ。
まあ、それでも恋華の自信家っぷりは普通じゃないがな。
幼い頃から、数多くの異性に好意を持たれたことだろう。それは聞くまでもなく明らかだ。
「ねぇ、颯斗は私のこと……好き?」
その質問は反則だ。てか、もはや愚問だ。
「す、好きだ……」
「へぇ、どうして? 聞かせてよ。どこがそんなに好きなの? はい、お客様の命令」
「そりゃ可愛いし……ちょっと変だけど、優しいところもあるし。それに、今日みたいに手を差し伸べてくれるところとか……惚れないって方が無理だろ」
言ってて恥ずかしさから死にたくなるようなセリフだ。穴があったら入りたい。
「ふ、ふふふ……そ、そう……ふぅん、じゃあ颯斗は私のことが大好きってことね」
恋華は恥ずかしながらも「えへへ」と嬉しそうにはにかんだ。
俺の頬から手を退け、自身の赤くなった両頬をおさえる。
「好き同士ってことでいいのよね? だからもちろん……その、こ、これからは恋人になるってことで……問題ないのよね?」
恋華はもじもじと体をくねらせる。
「もう、私にこんなこと言ってもらえるの、世界で颯斗だけなんだからね! 光栄に思いなさいよ!」
「はは、ありがとう……嬉しいよ、恋華」
我ながら臭いセリフだなと思った。だが、もう羞恥心は捨て切っていた。
「あなた、急に大胆になるわよね」
恋華は腕を組み、恥ずかしそうにジト目でこちらを睨む。
「俺さ、やってみるよ、ブライダルコーディネーター。なんか、ちょっと自信が湧いてきたんだ。俺も一緒に叶えたい、恋華の夢を。それが俺の、このホテルでのやりたいことだから」
「あら、やっと見つけられたのね。ほんと、颯斗ってばウスノロなんだから。けど、やるなら最高の結婚式じゃないと嫌よ。私の夢なんだから」
「おう! ありがとう恋華! 約束する!」
俺は力強く返事をし、立ち上がった。
「なら、今のうちからたくさん勉強しないとね。宿泊部の仕事はもうだいぶ覚えられたみたいだけど、ブライダルとなったら話は別。頑張りなさいよ、新米ホテルマンさん」
「任せろ。これでも、あの総支配人に期待されてる男だぜ、俺は」
「ふふ、自信がついてきたみたいね。いい顔になってきたわ。あ、私が期待してるってことも忘れないでよね」
「わかってるよ。何から何まで本当にありがとな、恋華」
「あなたは私の専属ホテルマンでしょ。私にとっても大切な存在なんだから、これくらい当然よ」
一人じゃない。今の俺にはホテルがある。今まで何一つやりたいことなどなく、ただ適当に生きてきた昔の自分とは違う。恋華や総支配人と出会えた今は、その過程こそ重要だったのだと思えた。
何もなかったからこそ、今の自分があるのだと。
完璧な人生なんてものは存在しない、誰にだって停滞する時はある。だが、最後に前へ進むことができれば、人は変われる。
このホテルでは、本当に多くのことを学んだ。そして、ついに見つけられた。己の夢を。
俺は恋華に感謝の言葉を述べ、部屋を出て行った。
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