第22話「ホテルマンの資質を持つ男は己の道を歩めない」


 スキッパー事件から一夜明けた翌日、俺たちホテルマンのいつもの日常が戻ってきた。

 普段通り、フロントの前でコンシェルジュや莉奈たちと待機している。


 夏休みも終盤に差し掛かり、宿泊者もピークの頃に比べるとだいぶ減った。


 そのため、若干だがホテルの熱が冷めている。仕事にも、何故かあまり身が入らない。

もうすぐ夏休みが終わり、総支配人が俺にくれた猶予が消える。それなのに俺は、まだ何も見つけられていない。このホテルでの、やりたいことが、夢が。


「おい、君」


 俺が頭の中を悩ませていると、誰かの声が聞こえた。それは聞き覚えのないものだった。

 それがまさか、自分にかけられたものだとは思わなかった。


「君だよ! 聞こえてるだろ!」


 苛立ちのこもった怒号が放たれ、俺はようやく気づいた。目の前で、小太りの男が呼びかけていたのだ。

 すぐその間にコンシェルジュが割り込んだ。


「お泊まりでしょうか」


 だが男はそれを無視し、俺に指先を突きつけた。


「どうして君が返事をしない!」


「も、申し訳ございません! それで、何のご用でしょうか」


「予約を入れてある」


「それでしたら、こちらのフロントクラークにお申し付けください」


 俺はフロントにいる本堂先輩の方を向いた。邪険にされたと思ったのか、男は不機嫌そうに口をへの字に曲げた。


「ふん、何もできないんだな、君は。ならもういいよ」


 横柄な態度で男はチェックインを済ませ、部屋へ向かって行った。

 すると、コンシェルジュが不安そうな表情で、俺の顔を覗きこんだ。

「ちょ、ちょっと、どうしたんだい……颯斗くん。もしかして、体調でも悪いのか?」


「い、いえ……そういうわけじゃ」


 本当にどうしちまったんだ俺は、何で仕事中に考え事なんか。今は仕事に集中しないとならないってのに。


「調子悪いなら、宿直室で休んでいるといい。総支配人や如月様には、私の方から話を通しておくよ」


「で、でも……」


「ずっと働き詰めだったからね、休みの日も如月様と一緒だったし。多分、疲れてるんだよ」


 コンシェルジュは俺のことを本気で心配してくれていた。ただ別のことを考えていたせいだなんて、今更言える空気じゃない。


「すみません。じゃ、じゃあ俺……少し休んできます」

「うん、それがいいよ」


 莉奈や本堂先輩が心配そうに見つめる中、俺はフロントの奥へと戻った。


 控室でスーツを脱ぎ、俺は自室である宿直室へと入る。昼間の時間帯にこの部屋を使うのは、妙に新鮮だ。いつもは朝と夜しか使わない。日中は仕事をし、休みの日も恋華の相手でほとんど休める日というのはなかった。


 改めて見ると、この部屋は何もない。あるのはベッドと机、それとクローゼットだけだ。飯や風呂はホテルで全て済ませてきたし、俺には特にこれといって趣味もない。思い返せば、夏休みの課題も一切やってこなかった。後で莉奈にでも写してもらおう。

 俺はベッドにダイブし、白い天井を見つめた。


 この部屋は、まるで俺自身だな。何の色にも染まっていない。目標も夢も、ここには何一つない。


 ここにいる誰もが、何かしらホテルでの夢を持っている。

 総支配人は世界一のホテルを目指し、本堂先輩はホテリエになるためにアルバイトをし、副支配人も総支配人になることを夢見ている。そのうえ、莉奈も総支配人に憧れを抱いくようになった。


 残ったのは、俺だけだ。


 そもそも、最初から間違ってたんだ。十五年間何も見つけられなかった男が、たった一ヶ月で変われるはずがなかった。


 俺はどこかで期待していたのかもしれない、環境が変われば、きっと何か目標が見つかるはずだと。そうやって、ずっと自分に言い聞かせてきた。俺は悪くない、きっかけがないだけなんだって。


 結局これが本来の『俺』だ。このホテルで働くようになって、少しは変われたような気がしてたけど、気のせいだったのかもしれない。俺は何一つ変わっていない。今だって、俺は現状に満足している。


 どの面下げて、総支配人に言えばいいんだろうな。このまま、ここで働かせてくださいだなんてさ。

 思考が、どんどんネガティブな方向へとシフトしていく。


「はぁ、俺がこのホテルで、本当にやりたいことって何なんだろうな」


 無意識のうちに、声に出ていた。


「まさか貴様はそんなことで悩んで、仕事を疎かにしたのか?」


 頭の上から、棘のある声が響いた。それは、耳にたこができるほど聞き慣れていた。体を起こすと、部屋の中には俺の他にもう一人別の人物がいた。


「そ、総支配人……」


 腕を組みながら仁王立ちする総支配人。

 普段は顎を突き出して見下したような視線を向ける総支配人だったが、今日は珍しく顎が引けていた。


「ったく、酷いツラだ。しかし貴様がそこまで悩んでいたとはな、意外だったよ。てっきり夏休みが終わったら、ここを辞めるものだと思っていた」


「そ、そんなわけ……」


 はっきりと否定しづらい内容に、俺は言葉を詰まらせた。

 総支配人は俺が寝転がったいるベッドに小嶋を下ろす。さすがにこの体勢は失礼だと思い、起き上がった。


 宿直室で総支配人と二人っきりで話すのは、もしかしたら初めてかもしれない。自室にいるというだけで違和感がある。そのうえ、同じベッドに腰を下ろしている。妙な緊張感が漂う。


「私は無理に続けろとは言っていない。貴様はそのうえで、夏休みの間だけならと手を打ってくれんじゃないか。違うとは思うが、ここに残りたいがために夢を追い求めてるわけじゃないだろうな?」


 俺は何も言い返せなかった。正直、ホテルに固執していたことは確かだからだ。


「沈黙、それもまた答えだな。でも、それでいいんじゃないか?」


「え? ど、どういうことですか?」


「別に、やりたいことがなくてもホテルマンを続ければいいと言っているんだ。私はもう無理に誘ったりしないが、貴様にその気があるなら話は変わってくる。私は当然、貴様を拒んだりしない」


 よろしくお願いします、そう返したかった。もう既に、俺はホテルという場所が好きになっている。総支配人や恋華と出会って、気持ちが変わった。今も、ホテルというものに惹かれ続けている。

 だけど、その言葉に甘えることだけはできなかった。


「すみません、総支配人。それじゃあ……ダメなんです」


「ダメ……と言うと?」


 総支配人は柔らかい声で訊き返した。


「このままホテルマンを続けても意味がないんです。それでは、今までの俺と何一つ変わりません。現状に満足して、変化を恐れて、結局立ち止まったまま。もう、そんな自分は嫌なんです!」


 徐々に感情が露呈し始め、最後は少し声を張り上げてしまった。


「そんな焦る時期か? まだ高校生じゃないか」


「実は俺、今まで環境のせいにしてたんです。やりたいことがないのも、きっかけとかかがないからなんだって。でも、ここに来てはっきり思い知らされたんです。ずっと足を引っ張ってたのは、俺なんだって」


「なるほど、それで気を落としていたわけか。ったく……面倒くさい男だな、貴様も」


「はは、総支配人には言われたくないですけどね」


「ふっ、違いない。まあ、それでも村上には負けるがな」


 たしかに、ぶっちぎりで副支配人が面倒くささではトップだ。


「颯斗、貴様は村上が嫌いか?」


「え、副支配人のことですか? まあ、嫌いというか……苦手ですね」


「だろうな。どうして私が、あんなクズみたいな男を副支配人にしているか教えてやろう。奴は人間として扱っていいのかどうかもわからないレベルだが、ホテルマンとしては優秀だ。そして何より、奴はホテルを愛している。口を開けば総支配人になりたいとしか言わないが、あれだけ野心を露わにできるのは、己に自信があるからだ。常にお客様を幸せにすることを願うホテルマンにとって、自信は最も必要なスキルと言えるだろう。というより、それがなくては話にならん。私が雇っている人間は全て、このホテルという場所を愛している。私が最も重要視するのはそこだ。だから貴様の幼馴染も、ホテルを知りたいと言ったから雇用してやった。そういった人間を、私は拒んだりしない」


 俺は誤解していた。総支配人が副支配人をそばに置いているのは、ホテルマンとしての実力だけだと思っていた。でも違った、それはもっと純粋な、ホテルを好きだという気持ちだった。


 いま思えば、副支配人は総支配人というポジションではなく、ホテルのトップという肩書きに憧れていたように感じた。


 副支配人がそれだけホテルを好きだからこそ、ホテルの総支配人になりたいと強く思っていたんだ。それは単なる貪欲な野心ではなく、己の夢。たしかにやっていることや発言はクズそのものだが、その本質は誰よりも純粋だ。


「夢を持てないことを恐れているのなら、今の貴様は村上以下ということだ。ふっ、最高にダサくてカッコ悪いな」


 総支配人なりの慰めのつもりなのか、引き合いとしていいように副支配人を利用している。本当に不憫だな、同情の余地はないけど。


「だがな颯斗、私は貴様を必要としている。それだけは間違いない。あまり己を追い込むな。別に今すぐにじゃなくても、貴様にだっていつか見つかるはずだ」


「そう……だといいんですけど」


「はぁ、少しは気分を上げたらどうだ。今の貴様は、本当に面倒くさいぞ。さっさと職場に戻れ。少なくとも、貴様の帰る場所はここじゃない。ほら、夢はなくても、貴様が熱を上げている相手はいるじゃないか」


「え……そ、それって……」


「なんだ、私に最後まで言ってほしいのか?残念だが、貴様にそんな暇はない。早く行ってこい、今ごろ部屋で雑誌でも読みながら、貴様を待っているぞ」


 答えを聞くまでもなく、そんな人物を俺は一人しか知らなかった。

 俺はすぐに立ち上がり、クローゼットにしまったスーツに手を伸ばした。


「ありがとうございます、総支配人。少しですけど、楽になった気がします。今から仕事に戻ります。ここにいたら、それこそ何も見つかりませんしね」


「そうか、なら私も貴重な時間を割いただけのことはあったようだな」


 不器用に微笑む総支配人を部屋に残し、俺は宿直室を後にした。


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