第21話「甘い罠」

 数日後、橋本がチェックアウトする日の前日。俺がフロントの前で待機していると、橋本がエレベーターホールの方から現れた。


「すみません、お願いがあるんですが。出張が伸びてしまいまして、もしお部屋が空いていれば、あと三日ほど宿泊させていただきたいのですが、可能でしょうか?」


「少々お待ちください。一度、確認を取りますので」


 俺はフロントに戻り、空いている部屋をチェックする。希望に添える部屋の候補はいくつかあった。


「可能です。明日またチェックインをお願いします」


「ありがとうございます」


 橋本は軽く頭を下げ、部屋へと戻っていった。

 そしてこれが、恋華の考えたスキッパー封じの秘策、その第一段階だったのだ。


 エレベーターへと姿を消す橋本を見送っていると、総支配人が俺の肩にポンッ、と手を置いた。


「さて、私と貴様が明日、頭を下げて謝ることになるのか。それとも、逆になるのか。楽しみだな」


「いや、もう既に胃が痛いです。これで間違ってたら、マジ最悪ですよ」


「そうだな。だがまあ、泥を被るのが私らだけで済むんだ。安いものだろう」


 明日、どういう結果になろうとも、俺は二度とこのような手段は選ばないだろう。


 そして迎えたチェックアウト当日。

 新しい部屋への宿泊手続きを行うために、橋本がフロントに訪れた。


 フロントには、総支配人にコンシェルジュ。さらには副支配人の姿もあった。

 俺はもう、覚悟はできていた。


「それで、どこなんですか? 空いてる部屋は」


「そのことなんですが、手違いがありまして。新しいお部屋が御用意できませんでした。この度は、誠に申し訳ありません。ですので、今からチェックアウトのみ行わせていただきます」


 俺は深々と頭を下げる。すると橋本は体を小刻みに震わせ、口をパクパクとさせていた。

「ふ、ふざけるな! 昨日はたしかに部屋があるって言ってたじゃないか! お、お前、客に嘘をついたってのか!」


「誠に申し訳ありません。私の勘違いで、お客様に間違った情報をお伝えしてしまいました」


「どうしてくれるんだよ! 出張が長引いたって言っただろ! 今すぐ新しい部屋を用意しろ! どこでもいいんだ、あるはずだろう!」


 だが、俺の主張は変わらなかった。俺は何度も頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返した。

 ゆっくりと頭を上げると、目の前には総支配人の背中があった。


「こちらの不手際で、お客様に大変御不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ありません。ですがご安心ください。既に別のホテルの方に話をつけて置きました。お部屋の方もグレードアップさせていただきましたので、こちらでチェックアウトを済ませた後、スタッフが車で橋本様をそちらのホテルまでお送りいたします。もちろん、追加料金は当ホテルが全て負担いたします」


「なっ! そ、そんな」


 突然橋本は顔を曇らせ、冷や汗を流す。


「どうかなさいましたか?」


 橋本は両拳を握りしめ、奥歯を噛み締めた。


「コンシェルジュ。お客様が御気分を悪くされたようだ。事務所の方に御案内を」


「えっ!」


 コンシェルジュは一瞬、困惑したように顔を歪めたが、すぐに橋本の荷物を持って事務所へと向かった。

 橋本が声を荒げたことで、周囲の視線が集中していたのだ。


「皆様、どうもお騒がせして申し訳ございませんでした」


 総支配人が一礼し、その場を収めた。

 俺は事務所に向かう途中、莉奈が部屋の点検を終えてロビーに戻ってきていることに気づいた。どうも、今の一部始終を見ていたらしい。一瞬だが、莉奈の総支配人を見る目が、尊敬の眼差しに変化したかのように感じられた。


 その後、事務所で橋本が全てを自供した。自身がスキッパーであること、故にチェックアウトの際に料金を支払えないということ。そう、全ては罠だったのだ。


 スキッパーであればギリギリまで宿泊期間を延ばすであろうと考え、部屋を確保できたと嘘の報告をする。だが実際には部屋など用意してしておらず、こちらの不手際だと謝罪する。そして別のホテルに部屋を確保しておき、橋本にチェックアウトをするしかない状況を作り上げたのだ。


 まあ、この作戦を伝授してくれたのは恋華なのだが、ホテルとしては綱渡りに近い無謀な賭けだった。


 もし本当に橋本がスキッパーでなかったとしたら、ホテルにとって大きなダメージになっていた。お客様に間違った情報をお伝えし、不快な思いをさせてしまっていたからだ。


 当人である俺も、恐らくただでは済まなかっただろう。

 その後、橋本はコンシェルジュとともに警察に向かった。


「はぁ、あともう少しで総支配人責任にできたというのに。あの方が本物のスキッパーだったとは」


 難を逃れたというのに、何故かがっかりしている副支配人。本当にこの人はいい性格をしている。


「なんだ、いたのか村上。すまん、気づかなかった」

「酷いッ! これはたちの悪いパワハラです!」


 もうこのコントは見飽きた。

 俺は自然とため息をついていた。


「颯斗。今回は貴様にも危ない役を押し付けてしまったな。すまなかった」


「いや、いいですよ。最初にあの男をスキッパーだと疑ったのは俺ですし。それにもし逃げられでもしたら、デポを取らなかった莉奈の責任になってましたから」


「ああ、そうか。初めての仕事でデポジットを受けとらなかったがために、ホテルに大きな損害を与えてしまうことになれば、あの女が責任を負いかねない。貴様は、大事な幼馴染を守りたかったということか」


「ははは……まあ、そんなところです。あいつ、妙に真面目なところあるんで、責任感じすぎちゃうだろうと思いまして」


 総支配人は不敵に微笑むと、事務所の入り口を指差した。


「なら、あとは二人でよろしくやれ」


「……え?」


 総支配人が事務所のドアを開けると、莉奈が聞き耳をたてていた。


「あッ! お前、聞いてたのかよ」


「うん、いやその……気になっちゃって」


「安西莉奈。この男には感謝しておけよ、自身が泥を被る覚悟で、貴様を守ろうとしたのだからな。さて、私は空気が読める女だからな、ここら辺で退散するとしよう。私が貴様らに気を使うなど、今後ないと思え」


「総支配人、どういうことですか? 私には何がなんだか」


 状況が読めない副支配人は、怪訝な表情を浮かべていた。


「いいから、貴様は私と来い。さっきの発言が気に障った」


「えッ! ちょッ! そ、総支配人!」


 総支配人に胸ぐらを掴まれ、強引に連れ出される副支配人。

 ほんと、副支配人ってば空気読めねーな。つうか、総支配人もいらん気づかいを。

 部屋に残らせる俺と莉奈。なんか、妙に緊張するな、なんでだろう。


「あ、あの、ありがとう……颯斗」


「別に、この程度のことでホテルのこと嫌いになってほしくなかっただけだ。それに、大したことはしてない。恋華の入れ知恵だしな」


「大したことだよ。デポジット取らなかったのあたしなのに」


「あの状況だったら、俺だってお客様の意見を尊重したよ。お前のせいじゃない」


 デポジットを取ろうとするだけで、自身のことを信用してないんじゃないかと思うお客様は多い。あれは間違いなく最善の行動だった。無理に取ろうとすれば、お客様に不快な思いをさせてしまう。デポジットを払わない、それがイコールスキッパーとはならないのだから。


「ホテルって、本当に色々な人が来るんだね。その人たちに、それぞれ適した対応をしていかなきゃいけないって本当に難しいな。今日、総支配人を見て思ったよ。あたしもあんな風になりたいって。だって、すっごくカッコよかったんだもん」


 莉奈は目を輝かせながら言った。そこから感じ取れたのは、総支配人への強い憧れだった。


 まあ、たしかにありゃ女でも惚れるよな。むしろ普通の男よりよっぽど男らしいし。俺とかマジで霞んで見えるだろう。


「あたし、誤解してたよ。このホテル、変な人ばっかりいるもんだと思ってた。コンシェルジュは見た目怖いし、フロントは変態だし、まともな人なんて誰一人としていないって、勝手に決めつけてた」


 否定しづらい内容だな。コンシェルジュはたしかに大男だし、フロントは言わずもがなだし、正直当たってる気がする。まあまだ、副支配人の本性に気づかれてないのが幸いだな、あの人多分、このホテルで一番やばいからな。てか、もはや歩く公害だし。


「颯斗。あたし、このホテルでやりたいことできたよ!」


「え、やりたいこと?」


「うん! あたし、もっと経験積んで、いつか総支配人に認めてもらいたい! それが、あたしの目標!」


 俺は開いた口が塞がらなかった。

 まさか、莉奈の方に先を越されることになるなんて。


「ほら、なんかあたし、総支配人にあんまりよく思われてないでしょ? だから、まずはあたしのことを見てもらえるように努力する! なんか今は認知すらされてないっぽいし」


 いや、総支配人はさすがにそこまで嫌ってはいないと思うぞ。多分、副支配人よりかは人間として見てもらえてるはずだ。


 けど、莉奈には見つけられて、俺にはまだないんだよな。このホテルで、やりたいこと。


 それは本当に小さな目標かもしれない。それでも、莉奈は総支配人に認めてもらうっていう、確かな目標ができた。なのに俺は、まだ先に進めないのか。


 なんか、悔しいな。

 はは、やばい、焦ってきた。


 そういえば、もうあと少ししかないのか。総支配人が俺に与えてくれた、夢を探すための期間は。


 気づけば、日付は八月二十一日。既に、もう八月も終わりを迎えようとしていた。


「話の途中で悪いんだが、チェックアウトも大方終わったし、そろそろ部屋の点検に向かわないか?」


「あっ! そうだね。えーっと、ベッドメイクとかがちゃんとしてるか確認して、水とかのサービスが手配されてるかどうかとかも見ておかなきゃいけないんだっけ?」


「そうそう、もうだいぶ仕事内容は覚えてきたみたいだな」


「まあ、もう結構入ってるしね」


 莉奈が来てからもうそんなに経ってるのか。早いもんだな。

 時間が、俺を少しずつ追い詰めていた。


「それじゃあ、別れて部屋の点検といくか」


 俺は一人になりたかった。そのための理由は、正直なんでもよかった。

 ロビーで莉奈と別れた俺は、主に上層階の部屋の点検に回った。


 俺はその間、初めてこのホテルに来た時のことを思い出していた。あの日、総支配人は自分に賭けてみてほしいと言っていた。なのに俺は、あれから全く成長していない。ただ、今まで通り、そつなくこなして生きるだけ。


 総支配人が俺に時間とチャンスをくれたのに、結局変わることができなかった。総支配人は、俺には資質があると言っていた。それはつまり、俺にしかない何かがあった。それこそ漫画や映画の中みたいな、俺だけが持っている力のようなものが。


 つまり、俺はこの夏休みの間、それを開花させることすらできなかったということなのだろうか。


 気づけば、部屋の点検はほとんど終わっていた。俺は腕時計の時刻を確認し、ロビーへと足を向ける。


 廊下を歩いている時、思わずため息がこぼれた。

 追い込まれ、完全に気力を失っていた。


 欲しい、俺も欲しい。心の底からやりたい、目指したいと思える目標、夢が。

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