第19話「危険なお客様」
数日後。莉奈のアルバイト初日がやってきた。その日は晴天で、ギラギラと太陽が大地に照り付けている。
夏休みも中盤、旅行客の利用も急増していた。
その日、コンシェルジュはいつになく電話対応に追われていた。普段はベルやフロントの手伝いをしているが、本業はお客様の希望に応えることだ。予約の際、そのホテルでのサービスや旅行先のプランなどをお客様に提供する。この時期は特に忙しい。
だが逆にルームサービスなどの連絡があまり来ないため、フロントやベルはチェックアウトや部屋の点検が終わると暇だった。
本堂先輩も、フロントで退屈そうにあくびをする。
「颯斗くーん、暇だしお姉さんとエッチなことして遊ぼーよー」
「遊びませんよ。そろそろ莉奈が来るんですからら大人しくしててください。あと先輩、指導は俺に任されてますけど、女同士の方が楽ってこともあると思うんで、そういうのは色々教えてあげてくださいね。あいつ感情表現は下手だけど、悪い奴じゃないんで」
「ふふ、妬けちゃうなー。颯斗くんからそんなにも信用されてるなんて。えーっと、何時からだっけ?」
「十時からですよ。時間にルーズな奴じゃないですから、もうすぐ来ると思います」
時刻は朝の十時前。
いつものことだが、総支配人はまだ部屋で寝ており、出勤すらしていない。
恋華は普段、空いた時間をホテル巡りなどで過ごしているが、今日は莉奈の初日ということもあり、部屋で雑誌を読みながら待っている。どうやら莉奈のことが少し気になるらしい。
噂をすれば、エレベーターホールの方から駆け足で莉奈がフロントへとやって来た。
「あ……きょ、今日からお世話になります。安西莉奈です。よ、よろしくお願いします」
緊張しているのか、少し声が震えている。
「よろしくー。私はフロントクラークの本堂真里でーす。この間はあんまりお話できなかったけど、後で色々と聞かせてね。特に、颯斗くんのこととかについて」
「先輩。変なこと聞かないでくださいね。あと莉奈も、この人に余計なこと教えないでくれよな」
先輩は物足りなさそうに、指を唇に当てた。
「颯斗、更衣室はどこ?」
「更衣室ってか、控え室はこの裏だ。事務所の奥にある」
「……ありがと」
莉奈はフロントの中へと入り、控え室へと向かった。
俺はその間に、事務所から持ってきたサービスマニュアルに目を通していた。
これはホテルにおけるサービスのやり方を明記したもので、新人の研修などで使用する。俺のように指導の経験がない者は、このマニュアルに沿って教えていくのがベストである。
やがて、莉奈が事務所の扉をゆっくりと開け、フロントへと顔を出した。
「ど、どうかな?」
莉奈はホテルの制服をきっちりと着こなしている。だがあまり慣れないためか、少し恥ずかしそうだ。しかし、幼馴染がベルガールの格好をしているというのは新鮮だ。しかも自分とはお揃い。違うのは男子がネクタイで、女子がスカーフを首元につけているという部分だけだ。フロントクラークの本堂先輩とは全く一緒で、違いは一つもない。強いて挙げるとするなら、それは服装ではなく本人だろう。特に胸部の差は大きい。
「うわー! 可愛いー! 生きてて良かったよ。あっ! カメラカメラ!」
先輩は莉奈に抱きつき、ペットのように頭を撫でて可愛がる。手は頭から胸、次に腰、そして足、段々と下に移動する。そして事務所から愛用のデジタルカメラを持ってくると、ニヤニヤと口を緩ませながら撮影し始めた。
「やっぱり、可愛いは正義だよねー!」
「ちょッ! や、やめ、やめてくださいッ!」
嫌がる莉奈に、問答無用でカメラを連写する本堂先輩。
この人の趣味は未だによくわからない。ただ俺や莉奈にちょっかいを出すあたり、歳下に過剰なほど関心があるのは間違いないだろう。
「肌もぷにぷにですべすべだし、お持ち帰りしたいくらいだよー」
「颯斗! 見てないで助けてよ! なんなのこの先輩!」
「悪い。俺には無理だ」
関わりたくない、それが本心だった。俺も本堂先輩の相手は得意じゃない。
気に入ったアングルでの撮影を終えると、先輩は撮った写真を確認する。
「ふふ、また私のコレクションが増えて嬉しいよ。まだ手に感触の余韻が残ってる、それに臭いも」
先輩は自分の両手に鼻を押し付ける。やばい、この人のガチで危ないタイプの変態だ。
「じゃあ次は颯斗くんの番! ハグしよ、ハグ」
「しません。暇だからって俺らで遊ぶのやめてください」
不服そうに、先輩は頬をむっと含ませる。
「つまんないのー」
まったく、その容姿とは真逆で酷く頭の中が幼いな。
「はぁ……はぁ」
莉奈は息を切らし、甘い吐息を漏らしながら床にぺたんと座り込んだ。
「ったく、しょうがねぇな」
俺はため息混じりに手を差し出す。
「ほら、立てよ」
「あ、ありがとう」
「これからは先輩に気をつけることだな。俺はもう慣れたけど」
その瞬間、莉奈は目を細め、俺に鋭い視線を飛ばす。
「慣れたってどういう意味? まさか、颯斗も普段から抱きつかれたりしてるわけ?」
「え? あ、いや……それは」
「説明……詳しく」
手を握る力が徐々に強くなる。痛いです、莉奈さん。
「た、たまにな。二、三回程度は」
「へぇ、そうなんだぁ。それは良かったわね颯斗。本堂先輩スタイルいいし、美人だし。さぞ嬉しかったでしょうねぇ」
怖い、目が虚ろだ。しかもハイライトがない。その言葉も、寒気がするほどに冷ややかだ。
「それだけじゃないよねー。前に一度、控え室で私の下半身をほぐしてくれたりもしたもんねー」
「ちょおおおッ! 待って! 今はそれ言うのなしでしょ! しかも言い方悪意あるし!」
先輩が最悪のタイミングで、最悪の事実をカミングアウトする。やばい、絶対誤解された。
「本当なんだね……颯斗」
「待ってくれ莉奈!頼む、弁解させてくれ!これは違うんだって!」
「ほぉ、聞こうじゃないか」
セリフがいちいち怖いです。
「ちょっとそこぉ! なな、何で手なんか繋いでるのよ!」
途端、甲高い声がロビーに響く。声のした方向に目を向けると、恋華がプルプルと震えながらこちらを指差していた。
恋華は俺と莉奈の間に割り込み、強引に手を引き剥がす。
「ホテルマンが仕事もしないでロビーでイチャイチャするなんて、いい度胸ね」
「落ち着け、誤解だ。そうむくれるなって」
恋華はひらひらのフリルが付いたスカートに、肩の部分がはだけて鎖骨が半分見える涼しそうな衣装に身を包んでいた。少し女子高生には大胆すぎやしないだろうか。
恋華は聞こえるようにわざと舌を鳴らし、俺に人差し指を突き出した。
「あなた、たしかこの新人の指導を任されてるのよね? なら、私も手伝ってあげるわ。まずは服装からよ!」
これは面倒なことになった。恋華を納得させるのはプロのホテルマンでも難しい。
恋華は莉奈の制服を舐めるように観察する。本堂先輩と変わらない、これじゃただの変態だ。
「着こなしはオッケーね。ただ、ちょっと胸のあたりが平らすぎるけど、まな板でも入ってるの?」
恋華は露骨に嫌味を言い放つ。貧乳が一番言われて傷つく言葉だ。しかも、恋華のようにスタイルのいい相手だとその効果は絶大だろう。それに、莉奈は自分のスレンダー体型を少し気にしている。これはあまりにも非情すぎる。
「まあ、今は制服ですし、そう思っても仕方ないかもしれませんね。ラフな格好ってわけじゃないですし」
莉奈は意外にも冷静だ。気持ちは全く乱れていない。
すると、先輩が何やら俺に手招きした。
「颯斗くん、莉奈ちゃんウエストが細いから、少し小さいくらいがちょうどいいと思う。だから多分、脱いだら数字よりも胸あるよ!」
先輩はガッツポーズを取る。
「いや、何の話ですか!」
俺は思わず声を張り上げた。
恋華が俺の肩を指でつつく。
「颯斗。今日は多分、この子に色々と教えることがあって私に構ってられないでしょ。今日くらいは我慢してあげるから、放っておいても大丈夫なくらいには鍛え上げといてね。私、部屋で休んでるから、何かあれば呼ぶわ」
恋華は莉奈に散々突っかかった後、部屋へと戻って行った。本当に自由だな。
その背中がエレベーターの中へと消えると、莉奈がため息をついた。
「颯斗も大変ね。あんな身勝手なお嬢様に付き従って。てか何であの子、あたしに敵意剥き出しなの?」
「さぁな。直感的に合わないって思われたんじゃないか? ただ、あいつ長期滞在者だから。仲良くしとかないと面倒だぞ?」
「正直。あたしもあの子とは合わない気がする」
まあ、俺としては仲良くしてほしいところなんだけどな。
午後になり、チェックインするお客様が増えてきた。フロントカウンターの前には列ができており、本堂先輩や俺と莉奈はその処理に追われていた。
莉奈はとりあえず、まだ初日ということもあって見学していたが、最後の一人だけは任せてみた。
平凡な会社員と思われる、中年の男性だった。
男は声が小さく、やや聞き取り辛かった。
「予約していた、
「下の名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「草に治すって書いて
「ありがとうございます。橋本草治様ですね。本日よりシングルで御一泊ということでよろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
「では、こちらにサインの方をお願いいたします」
莉奈は宿泊票をお客様の前に出した。今のところミスはない。さすがと言うべきか、初日から完璧だ。元々、莉奈は学力は高い方だったが、仕事の理解も早い。
莉奈はシングルで空いている部屋を探し、カードキーを準備した。
宿泊票の住所と電話番号を確認する。
「結構です。お客様、お支払いは現金でよろしいでしょうか」
「そうです」
次に莉奈はデポジット、つまりは保証金を要求した。ホテルは安全のために、前払いとして保証金を預かるのがルールだ。
だが、中にはそれを断るお客様もいる。そして彼もその一人だった。
橋本はカードキーを受け取ると、さっさと部屋へ向かってしまう。
「あのお客様、デポジットの方は?」
「ああ、悪いけど人を待たせてるんです。それに保証金なんて、別に預からなくてもいいんでしょう? ならいいじゃないですか」
「あ……はい、かしこまりました。それでは、ごゆっくり」
男は仏頂面で、エレベーターの中へと消えていった。
初日の最初に対応したお客様がデポ対象にも関わらずそれを断るタイプとは、莉奈は少し運が悪い。
デポジットは重要だが、必ず受け取るということにはなっていない。もっともこれはあくまでヘブンでのルールであり、他のホテルでは対応も変わってくる。
デポ対象のお客様に対して片っ端からデポジットを要求していては、ホテルのクレーム率が増加してイメージダウンに繋がる。そのため、無理に受け取ろうとはしないのだ。
だが、デポジットを支払わないという行為はホテルにとって、ある危険が存在する。
「すみません、先輩。例のリスト、チェックしてもいいですか?」
「うん。私も今、同じこと考えてた」
俺と本堂先輩は、事務所からあるリストが入ったファイルを取り出した。
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