第18話「幼馴染は素直になれない」
俺は黙って紅茶を淹れる。莉奈の考えはおおよそ見えている。恐らく味に文句をつけたり、わざとこぼして俺のせいにしたりするつもりなのだろう。
はぁ、結果がマイナスだとわかっていると、嫌じゃないのに憂鬱になる。
「どうぞ、アッサムティーです。お口に合えばいいのですが」
恋華に鍛えられたおかげか、もう紅茶を淹れることにはだいぶ慣れた。いつ恋華から頼まれるかわからないため、常に茶葉を持ち歩いていたことが幸いした。
「ねぇ……あんた、普段からこんなことさせられてるの?」
「いえ、如月様以外の方には初めてです」
「ふーん、じゃあこれもあの子に仕込まれたってわけ」
莉奈は露骨に顔を曇らせる。どうも、何かが気に障ったらしい。
クレームをつけられるとばかり思っていたが、莉奈は紅茶を普通に飲んでいる。変に深読みして構えてしまった。
「美味しい。なんか……颯斗じゃないみたい」
「あ、ありがとうございます」
「やっぱ、その敬語うざい。あたしと二人きりの時は普通にして。遠くなっちゃったみたいに感じて嫌」
「わ、わかった……」
まあ、俺もこの口調、少し気持ち悪かったから助かるけどな。しかし、急に戻せと言われると逆にタメ口に慣れない。
「颯斗……ここって、楽しい?」
「それなりには。色々な人が宿泊するし、従業員はみんな変な人ばっかりだし、退屈はしないかな」
「そう、意外ね。趣味もろくにないあんたが、そんな風に言うなんて」
「たしかに初めてかもな、何か一つのことを楽しいって思えたのは。それだけ、このホテルって場所が凄いんだろうけど」
子供の頃から、俺は何一つ興味を示してこなかった。まったく、自分でもどういう心境の変化なのかわからないな。
「この紅茶、飲んだら文句言ってやろうとか、わざと床にこぼしてやろうとかって思ってたけど、予想以上に美味しかったからできなくなっちゃった。あ、ありがとね、颯斗」
うわぁ、やっぱり俺の予想通りの展開になるとこだったんじゃん。マジでそんなことするつもりだったのかよ。だとしたら、それはもはや人間じゃねぇ。あれだ、人の皮を被った悪魔だ。
でもまあ、褒められるってのは悪い気はしないな。普通に嬉しい。お客様に感謝の言葉を言ってもらえるって、ホテルマンとしては最高の喜びなんじゃなかろうか。
「あ、あと……ごめんね。さっきはその……ちょっとやりすぎた」
莉奈は俯き、ボソボソと蚊の鳴くような声で言った。
「おいおい、紅茶一杯で落ちるとか。お前、ちょろすぎねぇか?」
莉奈は頬を膨らませ、むぅと唸る。
「紅茶のせいじゃないし! ただ、あんたが文句の一つも言わずに、あたしの要望聞き入れてくれたから。もう、颯斗はホテルマンなんだなってわかっただけだし!」
「何それ、どういう意味?」
「今までずっと同じタワーマンションで、これから先も変わらずに続いていくもんなんだろうなって思ってたの。なのにあんただけ勝手にどっか行っちゃうから、置いてけぼりにされた気がして、凄く腹が立った。そしたら、総支配人さんが言ったのよ、あんたを困らせてやれば、仕事が嫌になって出て行くだろうって」
「なるほど。それでわざわざクレームを言ってきたのか」
「颯斗がこの仕事を嫌いになったり、客の機嫌を損ねてクビになったりすれば、また戻って来てくれると思ったのよ。けど、あんたは冷静だった。そのすました顔の仮面を剥ぎ取ってやろうって思ったのに、全然こっちの挑発には乗ってこなかった。凄く落ち着いてた。あたし、思ったよ。これがプロなんだなって。颯斗は変わろうとしてるのに、立ち止まったままのあたしが邪魔なんかしちゃダメだよね」
莉奈は深く項垂れ、ため息混じりに言った。
俺は少し複雑な気持ちだった。まだ数日しか働いたことない半人前が、幼馴染とはいえ、お客様相手にプロと言われたのだ。
妙に照れ臭く、それでいて誇らしかった。
正直、まだ大したことはできていない。それでも、俺からしたら最上のチップだった。
初めてホテルマンとして認めてもらえたような気がする。
今、全身が喜びの感情に包まれていた。
「もしかして、本当にあたしってちょろいのかな? 頑張ってる颯斗見たら、なんかもうそれで満足しちゃった」
「ほんとだよ、相変わらず素直じゃねーんだから。昔から変わらねーよな、そういうとこ」
「うるさいなぁ。一番大切な友達なんだから、当然でしょ」
「ったく、面倒くせぇな。でも、俺も悪かったよ。ずっとお前に黙ったままで」
すぐ莉奈にこのことを伝えていれば、ここまで拗ねたりもしなかっただろうな。完全に俺のミスだ。
「思ったんだけど颯斗は、タワーマンションよりホテルの方が似合ってるよ。今日の仕事ぶり見ればわかる」
「自分じゃよくわかんねぇな。今だって、総支配人に強引に連れてこられただけだし。まあ、この環境自体は楽しいけど」
「颯斗の口からそんな言葉が出てくるなんて、本当に意外。普段からずっとつまんなそうにしてるのに」
俺ってそんなに冷めてるかな。自分ではあまり自覚はなかったが、どうも他人からはそう見えているらしい。
「あっ、もちろんその制服も似合ってるよ。制服って言うより、普通のスーツだけど。ホテルのスタッフって軍隊みたいな服着てるイメージあったけど、本物はそうじゃないのね」
たしかにグランドホテル・ヘブンはスタッフ全員がスーツで、映画やドラマに出てくる特徴的な服装はしていない。
「けど、やっぱり気になる。どうして颯斗がここのホテルに採用されたのか。総支配人さんは何か理由とか言ってなかったの?」
「実は俺が子供の頃、下層民って馬鹿にされてた時に一度会ってるんだよ。総支配人は、そんな俺に既視感を覚えたみたいで。そこを買われたって感じだったかな。あの人、本当にタワーマンションと団地が嫌いだから」
「あ、ああ……そのこと。な、懐かしいわね」
莉奈は後ろめたそうに視線を逸らした。そう、下層民と俺を罵っていたのは、他でもない莉奈だからだ。
数秒の間、その場が静まり返る。
やばい、変な空気にしてしまった。
「颯斗、今だから言うけど。あ、あれさ、あたしなりの照れ隠し……だったんだよね」
「は? どういう意味だよ」
「あたしの部屋って最上階じゃん、それで颯斗は二階。子供の頃、颯斗と部屋が離れてるのが嫌で、わざと下層民とかって言って馬鹿にしたの。そうしたら、颯斗が上の階に来てくれるんじゃないかって思って」
顔を紅潮させ、もじもじと体をくねらせながら言う莉奈。
「たしかに最上階と二階じゃ、会うの面倒くさかったもんな」
「まあ……そ、そういうことにしといて」
莉奈は顔を紅潮させたまま、俺から視線をずらす。
「ねぇ、あたしもここで働くの……ダメかな?」
「え、働くって……ホテルマンとしてか?」
「う、うん……」
意外な質問に、俺は目を見開いた。
「あたし、嫌なの。あたしが知らなくて、颯斗だけが知ってる世界があるってことが。だって今までずっと一緒だったんだもん。だから知りたいの、颯斗を変えた、ホテルっていう場所がどういうところなのか」
莉奈は立ち上がり、俺に詰め寄ってくる。その瞳は真剣だった。
「あんま軽い気持ちで始めるもんじゃねーぞ。覚えることはたくさんあるし、仕事ってのは甘くない」
俺はこのホテルで、その苦労に関しては嫌ってほど学んだ。だが、逆にそれがホテルマンとしての生き甲斐でもある。
「話は聞かせてもらった」
突然部屋のドアが開き、総支配人が中に入ってきた。
「な、なんでまたここに?」
「貴様がどういう対応をするのか気になってしまってな。廊下で中の様子を伺っていた」
色々とツッコミたいことはあったが、俺はあえてそれについては触れなかった。この人は本当に読めない。
「どこら辺からですか?」
「アッサムティーを淹れた時から」
ほぼ最初からじゃねぇか!
「あの、総支配人さん。どうか、あたしをこのホテルで働かせてください! 立ち止まったままは嫌なんです!」
莉奈は深々と頭を下げる。
「安西莉奈。貴様がどういう理由で下層民などと呼んでいたのか、よくわかったよ。貴様は今後、いい刺激になりそうだ。良いだろう、このホテルで働かせてやる」
「ほ、本当ですか? あんなにたくさん、迷惑なことばかりかけたのに」
「それはこの男に対してだけだろう。私は素直にホテルに興味を示す者を拒んだりしない。むしろ大歓迎だ。貴様がタワーマンションに染まった異教徒ではないということも、わかったしな」
意外にも、総支配人は莉奈を快く受け入れるつもりらしい。てっきり俺は厳しく突き返すものかと。
「颯斗、まだ夜勤の時にした罰ゲームが残っていたよな。あれを今ここで使おう。この女を新たなメンバーとして雇う、貴様には新人教育を命ずる」
「なっ! ちょっと待ってくださいよ、俺だってまだ新人なのに。そういうのは他のベテランに頼んでくださいって、副支配人とかいつも暇そうにしてるじゃないですか!」
「アホか。あんな馬鹿に新人教育などさせられるわけないだろう。それに、貴様は私が見込んだ男だ。もう十分に、新しい芽を育てる力は有してるはずだぞ」
ずぶの素人に、一から仕事を教えることは簡単なことではない。俺の時はコンシェルジュだったが、ホテルでの経験も長く、その指導力はかなりのものだった。それと同じことを、たった一週間ちょっとしか働いていない俺に任せるというのだ。現実的じゃない。
「というか、貴様は難聴鈍感クソ野郎だな。少しはこの女の気持ちも察しろ」
「は? 何言ってんすか、総支配人」
俺が素の態度で訊ねると、総支配人は目を薄くし、舌打ちした。
「まあいい、とにかく頼んだぞ。颯斗」
よくわからないが、もう決定事項のようだ。
正直、不安しかない。
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