第17話「はじめてのクレーマー」

 総支配人は満面の笑みだったが、返ってそれが不気味に感じた。


「お客様は全員平等……ですよね?」


「はい。当然、安西様が身の回りの世話を彼に一任したいと希望するのであれば、我々ホテルマンにそれを断る理由はありません」


「ちょッ! 総支配人、いいんですか?」


「当たり前だ。貴様はまだ日が浅いから実感はないだろうが、ホテルマンを指名してくるお客様は珍しくない。異性に恐怖心を抱いていて同性のみに仕事を要求される方や、それこそ意中のホテルマンを指名することだってある」


 そういえば、恋華からも同じことを聞いた。お客様により良い快適を提供するためとはいえ、それでは普段の仕事に支障が出かねないような気がするが。


「ですが総支配人、それでは全てのお客様に平等という、先ほどの言葉に矛盾しませんか?」


「何も矛盾していない。現に貴様は、如月様の専属をやりつつ普段の仕事もこなしているじゃないか。いいか、お客様に過度なサービスはしてもいいが、手を抜くことだけはしない。それがホテルマンにおける平等の定義だ」


「お客様のワガママを全て聞いていたら、収拾がつかなくなります」


「そこをなんとかするのが貴様の仕事だ。お客様に不快な思いをさせずにより良い快適を提供することができれば、別に奴隷になる必要なんてない。正しく見極め、行動する。一流のホテルマンなら、これはできて当然だ。まあ、貴様にもいずれわかる」


 総支配人は顎を突き出し、かすかに微笑んだ。


「それじゃあ、私はフロントに戻る。あとのことは任せたぞ、颯斗」


 そう言って、総支配人は部屋を後にした。

莉奈と部屋に取り残される俺。いったい何しに来たんだよ、あの人は。


 長い付き合いだが、お客様とホテルマンという立場で莉奈に接する日が来ようとは思ってもみなかった。

 静寂する中、時計の秒針の音だけがやけに耳へと突き刺さる。


 ホテル、女の子と二人きり、男なら誰もが憧れる展開だ。そう、相手が幼馴染じゃなければ。


「で、では、自分も失礼しますね。何かあったらお呼びください」


 俺は耐えられなくなり、さっさと部屋を出て行こうとする。


「待って」


 扉のノブに手をかけようとした瞬間、莉奈が俺の動きを止める。


「な、なんでしょうか……お客様」


「この部屋……臭い」


「……は?」


「タバコ。禁煙室希望にしたのに、この部屋臭うわよ」


 そんなはずはない。仮に前のお客様がタバコを吸ったとしても、ハウスキーパーがこれを見逃すなんてありえないのだ。

 それも、このホテルならば尚更。

 だが俺が嗅覚を働かせると、たしかにタバコの臭いがした。


「未成年にこんなタバコ臭い部屋を提供するなんて、ちょっと酷いんじゃない?」


「ま、誠に申し訳ありません。すぐ、代わりの部屋を用意いたします」


「禁煙……よね?」


「はい。ただちょっと失礼します、上の者にフロントで相談してきますので」


「急いでよね」


 俺は一礼してから部屋を出た。

 フロントに向かう途中、俺は莉奈の異変に気付いた。

 妙だ、莉奈にしては手慣れている。怖いくらいに。


 タバコ臭いと訴えたのは、典型的なクレーマーの手口だ。クレーマーが部屋のグレードアップを希望する際、なんでもいいから部屋に難癖をつけようとする。だが、莉奈は普段から店員やスタッフにクレームをつけるタイプではない。それは幼馴染の俺が一番わかっている。恐らくだが、これは誰かの入れ知恵だ。そしてその人物は、今まさに俺が想像している人物だろう。


 最上階のフロントに戻ると、総支配人がロビーの椅子に腰をかけていた。どうやら、俺を待っていたようだ。


「ほら、今から奴をここに書かれている部屋に案内しろ。どうせ、部屋に難癖つけられたんだろ?」


 総支配人は俺に部屋番号が記された紙を渡す。もう片方の手には、封の開けられたタバコの箱が握られていた。


「やっぱり総支配人の仕業ですか」


「まるでわかっていたような口ぶりだな」


「部屋について来たあたりで何かあるとは思ってましたよ。あの臭いも、部屋に入った時に総支配人がこっそりとタバコの火をつけたんでしょう。莉奈はタバコを買えませんから、ホテル側がお客様に反論できない上手い手口です。逆に手際が良すぎて、これが莉奈の仕業じゃないってすぐにわかりましけどね」


「ご名答。それがわかってるなら、もう部屋を変えるしか選択肢がないってことも、当然理解できてるよな?」


「はい。ただ、なんで総支配人がこんなことをするのか、その意図を知りたいんです」


「私が何故、嫌いなはずのタワーマンションの愚民に協力しているか、ということか」


「まあ、そういうことです」


「安西莉奈とか言ったな、あの女。私は、あいつが嫌いだ。タワーマンションの高層階に住んでいるという、ただそれだけの理由でな。だからわざと、貴様にクレームを入れて潰すようにとあいつに指示した」


「嫌いだからって、それ理由になってなくないですか?」


「なっているぞ。あの女は、貴様が知らぬ間にホテルマンになったことで疎外感を覚え、拗ねているだけだ。なら、貴様がやることはたった一つ。見せつけてやれ、今の自分を。このホテルで培って来た貴様の力で、あの女に最高のもてなしをしろ。幼馴染としてではなく、ホテルマンとしてあの女を見返してやれ」


「お、俺が、ホテルマンとして……ですか?」


「そうだ。貴様は既に、それに見合う力を得ているはずだ」


 正直、こんな短期間で総支配人が思っているほど腕を上げているとは到底思えないのだが。


 しかし何故だろう。この人に期待されると、どういうわけか自信が湧いてくる。


 初めて会った時もそうだった。総支配人の目と言葉には、不思議な力がある。

 まるで本当に自分は期待に応えられるんじゃないか、そんな風に感じてしまう力が。


「さて、私は自分の部屋に戻る。頑張れよ、颯斗」


 総支配人は、中身のまだ残っているタバコを平然とゴミ箱に捨てた。


「吸わないのに買ったんですか?」


「私は非喫煙者だ。お前の力を見せつけるチャンスだとお前ば、この程度のコストは軽い」


 そう言って、今の状況を作り出した元凶はフロントから姿を消した。


「さて、どうしたもんかね」


 俺は渡された紙に書いてある部屋番号に目を通す。ツインにデラックスツインにエグゼクティブと、それらの番号は全てシングルより豪華な部屋だ。


「ふふ、頑張ってね、颯斗くん」


 本堂先輩がマスターキーを差し出してきた。俺はため息をつきながら受け取り、莉奈のいるシングルに戻った。扉を開けると、彼女の機嫌は一層悪くなっていた。

 そして開口一番に叫んだ。


「遅い! あたしは特に予定とかないけど、他のお客様の時とかもそんな遅いの? 部屋を決める程度のことで手間取って、このホテルのスタッフはみんなそうなの?」


 慣れないクレームを叫ぶ莉奈。とりあえず何でもかんでも難癖をつけてくるつもりらしい。


 申し訳ありません、と俺は繰り返した。

 堪えるんだ、我慢しろ。もしここでキレたりしたら、それこそこいつの思う壺だ。


「ちゃ、ちゃんと別のお部屋を用意いたしました!」


「悪いけど、追加料金なんて払わないからね」


「も、もちろん! 大丈夫です」


 禁煙かどうかなんて、どうでもいいくせに。

「なら早く連れてって!」


「あ、はい! ただいま!」


 最初に案内したのは、二十二階の奥にあるツイン。当然、シングルよりは部屋も広く、値段も高い。それをシングル料金で宿泊してもいいというのだから、これだけでも十分すぎるほど得である。

 莉奈はカーテンを開け、数秒、窓の外に目を向ける。


「それで、他の部屋は?」


「この部屋は、お気に召しませんでしたでしょうか?」


「なんか、あたしがごねて部屋をグレードアップを狙ってるとか思われてそうだから、最初と同じシングルの部屋がいいのよね。追加料金はいらないとか言っておいて、後で請求されたりしたら嫌だし」


 すました顔で莉奈は言った。俺は感情的になるのを抑え、必死に笑顔をキープする。


 莉奈の目的は俺への嫌がらせだ。部屋のグレードアップなどはなから眼中にない。

 だが、恐らくシングルだった場合も同様にケチをつけて他の部屋も案内させるつもりでいたのだろう。

 我が幼馴染ながら、狡猾でいやらしい女だ。


「かしこまりました。それでは、ご案内いたします」


 俺は奥歯を噛み締めながら、怒りをぐっと堪えて次の部屋に向かった。


 莉奈の要望通り、空いているシングルの部屋も見せたが、どうせ他にも確保してあるなら全部見てからにすると言い、結局デラックスツインやエグゼクティブの部屋にも連れて行くこととなった。


 だが莉奈は一人で使うには広すぎるだの、現実離れしていて落ち着かないなどと難癖を言い、最終的には二つ目に案内したシングルを選んだ。


「歩きすぎて疲れた」


 なら最初からこの部屋で手を打っておけば良かっただろうに。


 完全に俺を振り回すのが目的らしいな。

 無意識に歪めてしまっていた表情を戻す。それはホテルマンがお客様に対して見せていい顔ではなかった。だが相手が知り合いで、しかもわざと嫌がらせをしてきていると思うと、我慢の限界というものがある。


 いつ自分の感情が爆発してもおかしくない。そうなれば莉奈の思う壺、ホテルマンとしては失格だ。


「颯斗、あなたあの金髪の子に紅茶、淹れてたわよね? それ、あたしにもちょうだい」


「アールグレイですか?」


「なんでもいいから作って! 一番早く作れるのでいいから!」


 莉奈はどこか面白くなさそうに、俺と目も合わせずに怒鳴った。


 本来、それはホテルマンの仕事ではない。そもそも、お客様はそんなことを頼まないからだ。しかしお客様がそれを望んだ場合、話は変わってくる。


 ホテルマンの目的はあくまでも、お客様に快適なサービスを提供し、気持ちよくホテルに宿泊してもらうことにある。だが、決して奴隷というわけではないのだ。当然、無理難題を押し付けられれば断る。しかし逆に言えば、可能な限りは従うということなのだ。


 土下座をしろ、代わりに仕事をしろ、犯罪を手伝えなど、そう言ったことでさえなければ、ホテルマンはお客様に従順でなくてはならない。


 部屋に嫌いな虫が出たから取ってほしい、話し相手になってほしい、失くした物を一緒に探してほしいなどの命令は、理由なく断ったりしない。


 つまり紅茶を淹れてほしいと頼まれれば、基本的には従う。それが例え、単なる嫌がらせだとわかっていても。

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