第16話「面倒な客」
「なるほど、専属ホテルマンねぇ」
俺は恋華の部屋を掃除しながら、何故かまだスイートに居座っている莉奈に、このホテルで働くことになった経緯や、恋華との関係について詳しく話した。
到底、信じられる話ではない。
だが莉奈は人よりも想像力が豊かなようで、受け入れる時間はそれほど長くはなかった。というより、俺の言葉を信じてくれたのだろう。それがどれほど非現実的なことであろうとも。
「まるで漫画やドラマみたいな展開ね」
「俺もそう思う」
掃除とベッドメイクを終え、次の指示もないのでフロントに向こうとした。
だがその時、来訪者によって俺が触れるよりも少し早く部屋のドアが解放される。
その意外な人物に、俺は思わず目を剥いた。
「あら、どうしたの?」
「な、なんでここに……」
「え……だ、誰?」
俺たちが困惑していると、その人物はふてぶてしい態度で、ずかずかと部屋の中に足を踏み入れた。
「失礼します。如月様」
「珍しいじゃない、友恵が私の部屋に来るなんて」
そう、それはこのホテルで最も力のある人物、木下友恵だった。
総支配人は部屋の主である恋華の前で一礼し、その隣に座る莉奈を一瞥した。
「ほぉ、貴様か。颯斗の幼馴染という女は」
「だ、誰ですか?」
「私か? 私はこのホテルのオーナー兼総支配人、木下友恵だ。その小さい脳みそによく記憶しておけ」
「そ、総支配人? って、つまりは一番偉い人……だよね?」
莉奈は恐る恐る俺に答えを求める。
俺は無言で、首を縦に振った。それを見て、唖然とする莉奈。
お客様を除いて、初めて総支配人に会った人物はその威圧感から、本能的に恐怖する。それは莉奈も同じだった。
「なんか、凄い口悪くない?」
最もな言い方だな。とてもお客様により良い快適を提供するホテリエの口調ではない。
「総支配人はこれが普通だ。むしろまだいつもよりましなレベル」
「へぇ……そ、そうなんだ」
莉奈は完全に引き気味だ。
「で、友恵はいったい何しに来たの?」
アールグレイをすすりながら、恋華が訊ねた。
「いえ、大したことではないのです。ただ、颯斗の友人という点に興味がありまして。おい、貴様はタワーマンションの何階に住んでいるんだ?」
総支配人は莉奈がタワーマンションに住んでいることを前提で訊ねた。
「え……そ、それがなんなの?」
「いいから、さっさと質問に答えろ」
問いかけの意味を理解できない莉奈は、訝しげに眉根を寄せる。
だが、俺と恋華は既に総支配人の質問の意図がなんなのか察していた。
「一応、最上階ですけど」
答えが本当にこれでいいのか自信がなく、莉奈は蚊の鳴くような声で言った。
「ふっ、ふふふっ、なるほどな。つまり貴様というわけだ。幼少期、タワーマンションの下層に住む颯斗を階層マウントでバカにしていたのは。違うか?」
総支配人は下卑た笑みを向けた。
「か、階層マウントって。たしかにあたしは、今でも下層民って呼んでますけど。それがなんなんですか?」
「下層民? ほぉ、たかがタワーマンションの最上階程度に住む成金風情が、下層民ねぇ。身の程知らずとはまさにこのことだな」
総支配人は顎を突き出し、嘲笑う。莉奈に向けられた視線には侮蔑が込められていた。
「己が底辺だと認識できていない人間の悲しい末路。いいか貴様、この際だから教えておいてやる。団地を縦に伸ばしただけのタワーマンションなど、横に倒せば団地と同じだ。高いという以外に価値などないんだよ」
タワーマンションに親でも殺されたのか、総支配人は執拗に罵倒した。これさえなければまだまともなんだけどな、この人。
莉奈は震えながら、顔を徐々に紅潮させる。
「ちょっと颯斗! なんなのよこの人!」
俺に振るな。こうなった総支配人は非常に面倒くさい。
「そこでだ……おい貴様、少し耳を貸せ」
「え、今度はなんなの?」
莉奈は怪訝な表情を浮かべる。
「いいから、早くしろ」
総支配人は何かを莉奈に耳打ちしている。これは俺の考えすぎかもしれんが、何か嫌な予感がする。杞憂だということを祈るばかりだ。
莉奈は何を吹き込まれたのかわからないが、感心したように「なるほど」と呟いた。
「さて、なら早速、フロントの方で手続きをするとしよう」
「え、総支配人、手続きってなんです?」
俺が訊ねると、総支配人は莉奈に答えるよう背中を押して促す。
「颯斗、あたし、今からこのホテルに泊まるから」
「あー、そう……って、はあぁ?」
俺は腫れ物に触られたように叫んだ。
「おい、ホテルマンがお客様の前で声などあげるな」
「いやいや総支配人、どういうことか説明ありますよね? なんで急にこいつがこのホテルに泊まるって流れになったんですか! 絶対さっき何か吹き込みましたよね?」
総支配人はわざと俺から目を逸らす。これはもはや認めているも同然の反応だ。
「つうか莉奈、お前マジで泊まるつもりか?んな金あんのかよ?」
「まあ、うちは下層民のあんたと違って裕福だしね。それでいてバイトをしてた時期もあったから、一泊くらいなら問題ないかな」
くそ! いねーのかよ俺の周りには普通の奴が!
俺は口に出したい気持ちを押し殺し、心の中で叫んだ。
「お客様となったら話は別だ。たとえ相手が友人でもあろうともな。それくらい、貴様ならわかるよな? 颯斗」
「は、はい……わかってます」
総支配人や恋華の手前、ホテルマンとしての仕事を放棄することはできなかった。
「ならベルボーイらしく、お客様を案内してさしあげろ」
俺は渋々と従い、莉奈をフロントまで連れて行った。
フロントに戻り、宿泊票に名前と希望の部屋を記入する。シングルやツインは当然だが、喫煙か禁煙か、大浴場は使用するかどうかなど、書くことは少なくない。その光景に、当然だが本堂先輩とコンシェルジュは目を丸くしていた。
「デポジットは現金でよろしいでしょうか?」
「はい。まだカードは持ってないので、現金でお願いします」
本堂先輩が莉奈にカードキーを差し出した。その目はどこか訝しげだ。
「お、おお、お客様……お荷物の方はどうなさいますか?」
俺は無理やり笑顔を作って対応する。だが、やはり莉奈に敬語は慣れない。
「いらない、どうせ泊まるだけだし。財布とスマホがあればいいから」
後でホテルの方に荷物を届けるかどうかの確認をするが、莉奈は素っ気ない態度で答える。
俺は今すぐキレたいのを我慢し、表情を崩さないように努力した。
それも致し方ない。相手は知り合いだが今はお客様。そのうえ、俺の背後には総支配人がピッタリ張り付き、目を光らせている。一つのミスも許されない状況だ。いや、それはホテルマンならば普段から当然のごとく心がけていることだ。しかしそれが今は、より一層研ぎ澄まされていた。
俺は十階の、廊下の中程にある部屋へと莉奈を案内した。何故か総支配人もついてきている。
莉奈は部屋に入ると、室内をある程度だけ見回し、シングルベッドの上に腰を下ろした。
「へぇ、さすがは超一流ホテル、値段にそぐわない素晴らしい部屋ね」
「ありがとうございます」
総支配人は頭を下げ、丁寧な口調でお礼を言った。
もはやその姿はさっきとは別人だ。気持ちの悪い豹変ぶりに、正直引く。
莉奈は俺の方を一瞥する。その目には狡猾さが宿っていた。
何か企んでいる。俺はそう直感した。
「総支配人さん、たしか颯斗はスイートに泊まってる彼女の専属でしたよね? つまり、お客は好きなホテルマンを指名できるってことでいいですか?」
「なっ! お、お前……いったい何を!」
刹那、俺は総支配人に鋭い眼光を向けられ、一瞬のうちに威圧されてしまった。
「……し、失礼しました」
やばい、殺されるかと思った。
相手がお客様である以上、恋華のようにタメ口を強要するような特殊な例を除いて、敬語は絶対のルール。それを破ることは、相手が誰であろうと許されない。
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