第13話「恋華の気持ち」

「颯斗くん、どうして如月様が一緒にいるのか説明してくれるかな?」


 案の定、副支配人は体をぷるぷると震わせ、短い間に何度もメガネをかちゃかちゃといじる。明らかな動揺が見て取れる。しかもどうしていいかわからずに困惑している。


「実はホラー映画を見て怖くなってしまったらしくて、眠れないから一緒にいてくれと。それならできるだけ人の多い方がいいですし、フロントの裏なら仕事をやりつつ恋華の面倒を見られると思いまして」


「なるほど、そういうことですか。たしかに深夜のホテルで若い男女が二人っきりというのはまずいですしね。いい判断だと思いますよ。それなら認めましょう」


 副支配人はやっと落ち着いたらしく、一息ついてからハンカチで額の汗を拭く。この男は本当に思考が読みやすい。面倒なことを極力避けてくれるおかげで、多少の融通が利く。


「颯斗、雑誌」


「そう言うと思って、はいこれ」


「あ、ありがとう……」


 俺はすぐに恋華がホテル雑誌を読みたくなるだろうと思い、事務所に入るなり引き出しの中から最新号のホテル雑誌を取り出しておいた。


「あっ、それと颯斗……」


「わかってる、ホットミルクだろ? お前寝る前にいつも飲んでるもんな。今淹れてやるよ」


 俺は控え室にある冷蔵庫から牛乳を持ってきてカップに注ぎ、上からラップをしてレンジでしばらく温める。


 夜と朝はいつも作らされてるから、もうかなり体に馴染んできてるな。


「颯斗くん、手慣れてるねぇ。お姉さん嫉妬しちゃうなー」


「やめてくださいよ、仕事ですから」


「可愛いなぁ。それじゃあまだ私にもチャンスあるってことでいーのかなー?」


 へらへらと気の緩んだ笑みをこぼし、俺の頬を指で突っつく本堂先輩。


「それもやめてって! 変な関係だと誤解されたらどうするんですか!」


「私は大歓迎だよー。えへへ」


 そう言って先輩は俺の左腕を抱き寄せ、圧倒的なボリュームの豊かで柔らかい双丘を押し付ける。やばい、気持ちいい。


「ああ、もう! からかわないでくださいって! 仕事しますよ!」


 俺はもう片方の手でどうにか引き剥がそうとするが、一瞬早く、俺の右腕が反対側からくる力に引っ張られる。


 俺が右側に視線をずらすと、頰を膨らませ、ジト目でこちらを睨みつける恋華の姿があった。恋華は俺の右腕をぎゅっと抱きしめる。少し痛いが、力が弱いため激痛には届かなかった。


「どういうこと颯斗、あんたまさか……真里とそういう関係なの? わ、わわ、私にあんなこと言っておいて!」


 恋華の表情はさらに不機嫌になり、唇を尖らせる。


「はぁ? なんのことだ?」


「だ、だって颯斗! 私に……こ、こここ……告白したじゃないっ!」


 数秒、事務所が静寂に包まれた。


「それはどういうことかなぁ、颯斗くーん?」


 心なしか、本堂先輩から禍々しいオーラが放たれているように感じた。腕を掴む力が急に強くなる。やばい、こっちは普通に痛い。


 コンシェルジュは俺から目を逸らし、何事もなかったかのように黙々と働き始める。まずい、これは絶対勘違いされている。


「よりによって……わ、私がナイトマネージャーを担当している日に限って。いやでも、これは昼間の出来事であって責任は私ではなく総支配人に……待てよ、まだ既成事実があったわけではない。よく考えればお客様とスタッフの恋愛が禁止というわけではなくて、だからつまりあれだな、うんあれだ……」


 副支配人は変わらず、自己保身の為に意味不明な言葉を早口でぶつぶつと呟いている。


 というか、今は恋華の暴走をどうにかしなくては。いったい何がどうなって俺が告白したことになってるんだよ。


「颯斗くーん? 何か私たちに言うことがあるんじゃないかなー?」


 先輩の糸目がいつもより怖い。刹那、俺の体に悪寒が走った。両手に花だというのに、両端から殺意のようなものが感じられる。薔薇に刺ありとはまさにこのことだ。


「おい恋華、ちゃんと説明してくれ! 告白ってなんのことだよ?」


「なんのことって、颯斗言ったじゃない。初めて会った日に、可愛い、俺の好みだって」


 俺は一瞬、言葉を失ってしまった。恋華は顔を紅潮させ、照れているのを必死に隠す。


 しまった、あの時か。つい褒めるつもりで可愛いって言っちゃって、その後に恋華が謙虚だったから、少なくとも俺はって意味で伝えたつもりが、まさかこんな誤解を生んでいたとは。


「あ、あれって……ぷぷ、プロポーズでしょ? 返事はまだ保留だけど。勝手に他の女とイチャイチャされるのは嫌!」


「違うんだ恋華、本当にごめん。あれは告白でもなんでもなくてだな。えーっと、なんというか……勢いというかその」


「え、颯斗……あの言葉嘘だったの?」


 途端に、恋華の表情が哀しげに曇る。


「いや違う! 嘘じゃない! もちろん本音だ! だけど事実であって……告白ってわけじゃ」


「じゃ、じゃあ、やっぱり好きってことで……いいのよね?」

 俺は言葉を選びきれず、そこで黙り込んでしまう。


 しばらく、恋華と至近距離で見つめ合う。

 俺はもちろん告白なんてしてないし、する気だってない。だが、俺の不用意な発言で恋華が勘違いしてしまったのは事実だ。


 もういっそ、開き直ってしまいたい。

 俺は頭の中で必死に考えを巡らせ、やっとの思いで言葉を絞り出す。


「恋華……たしかに俺は言ったよ、間違いない。だけど、返事はまだ大丈夫だ」


 月並みな言葉を言っても意味はないと思った。だから俺は、どうにかこの場を切り抜けることが最善だと考えた。その答えが、後回しにするということだった。


「そういうわけなんで本堂先輩、俺にあまりベタベタしないでください。お願いします」


 結果的に恋華を利用する形になってしまった。我ながら最低な男だな、俺は。


「事実なんだー、そっかそっかー、なら仕方ないねー」


 本堂先輩から殺気は消え、いつもの状態に戻っていた。やはり気のせいだったらしい。

だがその刹那、一瞬だけ先輩が俺の体を引き寄せ、耳元で囁いた。


「まあ、今度は愛人ポジ狙うだけだから。私は諦めないよー、颯斗くん」


 思わず体がピクリと跳ねた。怖い、この人。すると今度はまた、反対側にいる恋華から強い力で引っ張られた。


「真里は危険よ。私から離れないでね、颯斗」


 どうやら恋華は先輩に対して、一層警戒心が強くなったようだ。


「ねぇ、颯斗。私は別に、すぐに返事くらいできるわよ? だからその、あんたと付き合ってあげても」


 恋華は言いにくそうに小さくはにかむ、そして俺に上目遣いを向ける。やばい、一瞬ときめいてしまった。


 勘違いしたままの女の子につけ込むなんて男として最低だ。心のどこかに、このまま恋華と恋人同士になってもいいと思っている嫌な自分がいる。でもそれはダメだ。俺は恋華が嫌いじゃない、むしろ好きだ。だからこそ、簡単には決めていいわけがない。


「恋華……やっぱそういうのは、ここじゃちょっと。二人きりの時に、また改めて返事を聞かせてくれ」


「ふ、二人きりって……颯斗、意外に大胆よね。わ、わかったわ……仕方ないわね」


 ようやく恋華も静まり、再び俺が餌付けしたホテル雑誌を読み始める。


「颯斗くん! 秘め事は全て私に報告しなさい! これは君たち二人のためでもある!」


 副支配人が突然顔を近づけ、唾を飛ばしながら言った。


「いや何もしませんし、てか何でそれを副支配人に報告しなきゃいけないんですか?」


「決まっているだろう! 未成年者による不純な行為が明るみになれば総支配人の責任にできるじゃないか!」


 副支配人はメガネをわざとらしく指で押し上げて、見たくもないドヤ顔を披露する。ぶれないな、この人も。


「でもそれだと、ホテル的にも結構マイナスですよね? 評判が落ちてから総支配人になっても意味ないんじゃないですか?」


「ああああああッ! くそうッ! なら私はどうしたらいいんだあああああッ!」


 副支配人は頭を抱えて大絶叫する。勝手にしてくれよ、本当に。


「うるさい村上! 私が今読んでるの見てわからない? 静かにしてよ! そんなんだから結婚できないのよ!」


 恋華が副支配人に辛辣な言葉を吐き捨てる。


「あー、もしかして副支配人、まーた婚活で失敗したんですかー?」


 本堂先輩がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら言うと、副支配人はわかりやすく体をピクリと震わせた。


「先輩、婚活ってなんのことですか?」


「そっかー、颯斗くん知らないのかー。副支配人はねー、毎月必ず婚活パーティーに参加してるんだけどー、未だに誰一人として連絡先も交換できてないの。ダサいよねー」


「うるさい! ダサいって言うなッ! これも全て私に副が付いているからだッ! くそッ、くそッ!」


 副支配人は悔しそうに涙をこぼしながら、床を何度も拳で殴る。


「なんでも、ホテルの副支配人をやってますって言って、勤め先はグランドホテル・ヘブンだって答えると、大抵の人は友恵ちゃんの方にばっかり感心しちゃって、副支配人のこととかどうでもよくなっちゃうんだってー。ほらー、友恵ちゃんって雑誌とかメディアでも取り上げられてるから、結構知名度高くって」


 なるほど、完璧すぎる上司を持ったが故に、その下に付いている自分は一切見てもらえないというわけか。それを聞くと少し気の毒だな。


「けど副支配人もまだ二十八なんだし、そんな焦る年齢じゃないと思うけどなー」


 たしかに、男性ならまだ余裕があるような気がする。まあ、いざ自分が同じ立場になると心境が変化するのかもしれないが。


「なんだ貴様ら、私の話をしているのか」


 刹那、何故か背後から総支配人の声がした。

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