第10話「ホテルマンの休日」
週末。
如月恋華の専属になってから数日が過ぎた。空は一点の曇りもなく、抜けるような青さに澄み切っていた。
その日はスーツではなく、珍しく私服に身を包んでいた。
グランドホテル・ヘブンはベルボーイやフロントクラークも全員スーツで統一されており、映画なのでよく見るオモチャの兵隊のような制服はない。
そのため、最近の俺の普段着はもはや完全にスーツと言っても過言ではなかった。
ホテルの中を私服で歩くというのは不思議な感覚だ。
今日がこのホテルで働き始めて初の休日なのだが、少し落ち着かない。それだけ違和感がある。
しかし、今日は厳密に言うと休日ではない。何故ならこの休みは恋華が俺をどこかに連れ出すために仕方なく空けられた日であり、これも仕事の一環だからだ。
気が乗らない。俺は深いため息をこぼした。
フロントの前で時間を確認しながら恋華が来るのもを待つ。結局行き先は教えてもらえなかったが、いったい今度はどんな無茶振りを強いるつもりなんだ。
「いやー、颯斗くんの私服はなんだか新鮮でいいね」
夜勤の仕事を終えたコンシェルジュが事務室から顔を出し、声をかけてきた。
「毎日働いてますからね。あ、そういえば俺、コンシェルジュの私服見たことないですけど、プライベートとかは何してるんですか?」
あまり触れたことがなかったコンシェルジュの日常。少し興味がある。
「ジムに通ったりするくらいかな。特にこれといって趣味って言えるものがなくてね」
あまり意外性はなかった。コンシェルジュが体を鍛えたりしている姿は容易に想像できる。
「あ、おはよう颯斗くーん」
控え室の方から本堂先輩がデジカメを片手に現れる。プロのカメラマンや記者が使っていそうな、ガッチリとした少し大きめのタイプだ。何故か俺をパシャパシャと撮り始める。
「あの、本堂先輩? 何をしてらっしゃるんですか?」
「いやー、中々見れない颯斗くんの私服、これは撮らずにはいられないでしょ!」
「なりませんよ! 無価値ですって! 恥ずかしいからやめてください!」
「えー、やだよー。これは私にとって、鉄オタが電車を撮るのと同じなんだからー」
先輩は楽しそうに色々なアングルからフラッシュを浴びせる。フロントクラークがロビーで私服の高校生を撮影する、撮られている俺にはもはや公開処刑だ。
何も特別なことはないと思うが、そんなに俺の私服姿は新鮮なのだろうか。自分ではわからないが、他人の評価とは時に不思議なものだ。
「本堂くん、そろそろカメラしまって仕事してよ。そろそろお客様がチェックアウトする頃だから。それに颯斗くんだって困ってるじゃないか」
コンシェルジュが助け船を出す。先輩は不服そうにカメラを控え室に戻した。
動物園のパンダの気持ちが、少しだけわかったような気がした。
「颯斗って随分と人気者なのね」
背後から響く甲高い声に振り返ると、恋華がつまらなそうに見つめていた。
フリルがついたゴスロリ系の黒いドレスに身を包みんでおり、なんとなく魔女を連想させる。胸元と背中には軽くカットが入っており、その豊満なバストがより強調されている。全体的に露出が控えめな割に、そこだけ妙に攻撃的で目のやり場に困る。
「おはよう恋華、呼んでくれれば俺の方から迎えに行ったのに」
「どうせフロントには顔出すんだから、この方が効率いいでしょ」
「いいなー、私も颯斗くんと一緒に遊びに行きたいなー」
戻ってきた先輩がフロントに肘をつきながら言った。
「今日は遊びじゃなくて教育よ。颯斗ってばホテルのこと何も知らない無知だから、私が色々と叩き込んであげるの」
なるほど、今日の目的はそれか。いったい今度は何を企んでいるのやら。
俺は頭の中は不安でいっぱいだった。
「それじゃあ行きましょう。真里、コンシェルジュ、颯斗借りていくわね」
「行ってらっしゃいませ」
コンシェルジュと先輩は深々と頭を下げる。二人に見送られ、俺と恋華はホテルを後にした。
「颯斗、今まで私が外出する際は専属のホテルマンに車を出してもらったの。でも、あなたはまだ高校生。そのため今日はもちろん電車を使うのだけれど、私は乗ったことがないのよ、この歳で一度も。だからその辺のマナーを先に教えてくれるかしら」
完全に世間知らずのお嬢様って感じだな。ドラマとか漫画とかでよく見る設定だ。しかし高校生にもなって一人で電車乗れないのはまずいよな。迷子になったりしないよう、ここは俺がしっかり教え込まなければならん。これは責任重大だ。
「教えるのはいいが、そもそも何線でどこの駅に行くとかはちゃんとわかってるのか?」
「駅名は大丈夫。ただその、何線? ってのはちょっとよくわからないわね」
なるほど、そこから教えるのか。
「駅ってのは全部が一本で繋がってるわけじゃないんだよ。だから行けるルートが決まってるんだ。まあ、それはゆっくり教えればいいか。今日は俺に任せて、恋華は乗り方だけ覚えればいいだろう」
「あらそう。ならいいわ、あなたに任せる」
恋華の了承も得たところで、俺たち二人は最寄駅へと向かい、恋華に教えてもらった駅までのルートを俺が検索した。恋華にはまず、改札を通る前に切符を先に買うことや改札口についての本当に簡単なことから教えた。かなり世間に疎く、改札に切符を入れる行為に時間がかかったり、できたらできたでオーバーリアクションだったりと、本当に高校生なのか疑いたくなるレベルだ。
だが意外にも飲み込みは早く、一度覚えれば次から失敗することはない。単に知らないというだけで、記憶力や理解力は優れているらしい。
「へぇ、これが電車。初めて乗ったけど、結構揺れるのね」
恋華は電車に興味津々で、窓の外を幼い子供のようにずっと眺めていた。他の電車とすれ違うと、その度に過度なリアクションをとる。完全に小学生だ。
「あッ! 今の駅通り過ぎちゃったけどいいの? 駅に着いたら止まらなくちゃまずいんじゃない?」
「大丈夫だよ。この電車は急行って言って、いくつか通り過ぎる駅があるんだ。ちなみに快速とか各駅とか、他にも色々種類がある」
いちいちはしゃがれると隣にいるこっちが恥ずかしい。
俺は終始人の目を気にしていた。恋華がゴシック系の派手な衣装を着ていることもあり、電車の中で騒がれると異常なほど目立つ。正直、俺にこの空気はきつい。
しばらく電車に揺られ、永遠にも感じた羞恥の時間が終わる。
「やっと着いたか。はぁ、きつい数十分だったぜ。で、ここからどこへ行くんだ?」
「いいから、颯斗は何も聞かず黙って私についてきなさい。大丈夫、別に変な場所に連れて行くわけじゃないから安心しなさい」
恋華は迷いなく進んでいく。何故だろう、むしろ不安しかないんだが。
「あ、あと今日寄るのはここ以外にもまだあるから。歩いている間にここから次の駅までの行き方を調べておいてくれる?」
恋華は俺に小さな紙を手渡す。ここからそう遠くない駅の名前がいくつか書かれていた。
まさか今日のうちにこの数を全部回るつもりなのか?
「電車の乗り方はわかったけど、行き先を調べたりするのはまだ無理。というか教えてもらってないし。ホテルに戻ったらちゃんとその辺についても教えなさいよね」
「それはいいけど、これ全部回るにはさすがに時間が足りなくないか?」
「無理なら別の日にするだけよ。夏休みなんでしょ?」
なんか自然に、また俺の休日が潰されるという事実が発覚したんだが。
「むしろこの私と一緒に外を歩けるんだから光栄に思いなさいよ」
「へいへい、わかったよ」
俺は気だるげに返事をする。
恋華が先導し、俺は金魚の糞のようについていく。駅内では人がごった返し、出口に向かうのも少し骨だった。俺は離れたらまずいと、自然と恋華の手を握る。
「ひゃうッ!」
途端、恋華が可愛らしい鳴き声をあげる。
「あ、悪い!」
「いきなり何するのよ!」
「この人混みだと迷子になっちゃうかなって。いや、マジですまん」
恋華は頬を赤らめ、俺に背を向けた。
「手を握るのはまだダメ。次やったら殺すからね」
「はい、気をつけます」
ん? あれ、まだってどういうことだ?
何か若干の違和感を覚えつつも、俺たち二人は迷わず出口までたどり着いた。
寂れた工場や農地とは無縁の場所、より便利なものへと進化を遂げ、変化し続ける街。
特にここは、普通よりも人が多く集まる。近くには有名な観光名所があり、常に外から来た観光客で賑わっている。そのため人の入れ替えによって経済や社会が大きく塗り変わってきた。流行りに乗りやすく、それでいて飽きやすい。人が多く入り乱れるからこそ、そういった流行は廃れやすい。
まるで人が街を変えている。そう、言うなれば運命共同体のような、そんな印象が伺える街。
恋華はこんなところに何の目的があって来たのだろう。
しばらく歩くと、恋華は何かを見つけて指先を向けた。
「もう見えたわよ。やっぱり、立地としては本当に悪くないわね」
「見えたって何が?」
「ほら、あれよ」
恋華の指が示す方向を向くと、そこには大きくて派手な看板が立てられていた。看板、というよりは門に近い。その先には都市部ではあまり見られない森が広がっている。看板の文字は英文で書かれており、成績が良くも悪くも平均値な俺では読めなかった。ホテルマンとしては致命的だな、英語の勉強は頑張らないと。
だがこの場所がなんなのか、それだけはすぐにわかった。
「ここってまさか、ホテルか?」
「そう、二十年以上前からこの場所に構えている超一流ホテル。その名もホテルクラウン。多くの上流階級に愛される場所よ」
それはもう外観から明らかだ。庭園の森や池は一瞬都会ということを忘れてしまいそうなほどに美しく、看板からホテルの入り口まで距離があるため、歩きながらその景色をたっぷり堪能することができる。建物の外装も海外のデザインを意識しており、日本の駅前とはとても思えない。写真だけ見せられたら誰も信じてはくれないだろう。
森を抜けるとホテルの本館らしき建物が見えてきた。テンプレートな制服に身を包んだホテルマンが、入り口の前でスタンバイしている。ベルボーイのようだが、普通はフロント前に待機しているのではないだろうか。しかしよく考えたら、ヘブンと違ってレセプションが一階に設置されているだろうから、特におかしいわけではないのか。特殊な構造のホテルで働いているせいか、オーソドックスなタイプには逆に驚かされる。
「おかえりなさいませ、如月様」
ホテルマンは丁寧な口調で挨拶し、深く頭を下げる。
「悪いわね、今日は食事をしに来ただけなの」
「そうでしたか、これは失礼しました」
「いいのよ、私も言われて不愉快じゃないから」
どうやら初対面ではないらしい、互いに見知った間柄のようだ。恋華はホテルに関して人脈が幅広いのかもしれない。
「ほら、行くわよ」
「え……あ、ああ……」
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