第8話「スイートルーム」

 一旦フロントに戻り、裏の事務室でデスクワークをしているコンシェルジュに『週刊ホテル』という雑誌が売ってある場所を訊いた。


「早速きたね、安心してよ颯斗くん。多分如月様が要求してくるだろうと思って、有名なホテル雑誌は前もって買い揃えてあるんだ」


「本当ですか!ありがとうございます!」


 コンシェルジュは引き出しから、何冊ものホテル雑誌を取り出した。しかし馴染みがないせいか、どれも聞いたことのないものばかりだ。

 ホテル雑誌って、俺が知らないだけで結構あるんだな。

 待てよ、コンシェルジュが用意してたってことは、お使いの頻度って割と高いのか?


「これじゃないか? ほら『週刊ホテル』って書いてある。というかもう全部持って行きなよ。どうせここにあっても誰も読まないし」


「そうします。すみません、コンシェルジュ………助かりました」


「いやぁ、なになにこれくらい。他にも何か要求されなかったかい?」


「あ、そういや、タメ口と呼び捨てを強要されました。同年代に敬語は気持ち悪いかららしいです。ホテルではお客様がルールだから敬語は禁止だって」


「なるほどね、相変わらず良いことを言うじゃないか彼女は」


「お客様がルールって、ところですか?」


「そう。彼女が言っていることは正論さ。私たちのルールなど、あくまでも仮のもの。大切なのはお客様を不快にさせないことだ。でも、何でもかんでも聞き入れるわけじゃない。そこは自分で判断しなきゃならないよ。ただ、タメ口と呼び捨てくらいは良いんじゃないかな? 同じホテルを何度も利用されるお客様は、ホテルのスタッフと友人や家族みたいな関係にもなるものだし。それがお客様からの希望なら、断る理由はないよ」


「そうですか。わ……わかりました」


 ホテルマンというのはやはり難しい。ただ丁寧な対応すれば正解というわけでもないのか。

 お客様がルール。言葉だけなら某漫画に出てくるガキ大将の俺様ルールに近いものを感じる。

 俺はコンシェルジュに礼を言い、事務室を後にした。


「颯斗くーん、どう? 苦戦してる?」


 事務室を出たところで、部屋の点検を終えた本堂先輩がフロントに戻ってきた。


「早速頼まれましたよ。ホテル雑誌買って来いって。そしたらコンシェルジュがすでに買ってました」


 俺は手に持っている『週刊ホテル』を先輩に見せた。


「やっぱりね、そうだろうと思った!」


 どうやら恋華のお使いは有名らしい。これからは書店で他にどんなホテル雑誌があるか種類をチェックしておこう。


「あの子ね、友恵ちゃんと同じくらいホテルが大好きなホテルマニアなの。だから早く持って行ってあげて、きっとその雑誌を楽しみに待ってると思うから」


「そうします、それじゃあまた」


 俺は軽く手を振ってエレベーターホールへと足を向けた。


「おーい、恋華。雑誌持ってきたぞー」


 すぐに恋華の待っているスイートへ戻り、俺はノックをしながら中に呼びかけた。すると、部屋の扉が爆発的に開いた。


「おかえり颯斗!待ってたわよ!」


 恋華は大きな瞳をキラキラと輝かせ、俺から受け取った雑誌を胸の中で抱きしめる。よほど読みたかったらしい。


「あなたも一緒にどう? 友恵の特集記事もあるのよ?」


「え、総支配人が?」


「そりゃこの業界じゃ有名人だもの。今週は新しくできるビジネスホテルを視察に行くらしいわ。ほら、ここに載ってる」


 恋華は開いたページを俺に見せる。そこには大きく総支配人の写真が貼られており、その下に小さく『期待の若き女性総支配人』と書かれている。口が悪く部下には厳しいが、ホテルの仕事に関しては取り上げられるほどに優れているらしい。事実、このホテルはスタッフに変態が混じっていることなどを除けば、日本でもトップクラスの一流ホテルだ。そこのオーナー兼総支配人ともなれば、メディアが放っておかないわけがない。俺は改めて、総支配人の凄さを理解した。


「そういえば、颯斗ってこのホテルについてどこまで理解できてるの? まだ入って数日なんでしょ?」


「実際のところまだ何も。ホテルについてもホテルマンについてもトウシロウ。強いて言うなら、スタッフが変ってことくらいかな」


「じゃあ友恵の凄さはまだまだって感じね。もし変だと思ってるなら、それは大間違いよ」


「いや、たしかに変だとは思ってるけど、総支配人の凄さは理解してるつもりだ。なんだかんだ人望もあるし」


「まあ、彼女の全てを理解するのはさすがに無理でしょうね。それだけ特殊な人だし」


 恋華はふてぶてしい笑みを浮かべ、目を細めた。


「私の知る限り、友恵を超えるホテル経営者は存在しないわ。このホテルはまるで彼女の願望によってできたかのよう、それこそが一流ホテルに必要な力なの。彼女の経営理念はいつも全てが正しい。それがとどのつまり、己の願望だったとしてもね」


「己の……願望?」


「ホテルはね、お客様の想いでできてるの。つまり、自分がどういうホテルに宿泊して、どんなサービスを受けたいか、それがホテル経営においては最も重要なのよ」


 恋華は妙なほど総支配人を持ち上げる。たしかに実績などを見ればその実力は明らかだが、正直な話、俺はそれを完全には理解できていない。


 まだ俺の知らない総支配人の、このホテルの姿があるというのだろうか。


「友恵がホテル経営を志したのは、中学生の頃らしいわ。その時、団地に住んでいた友恵は、タワーマンションに住む同級生からいじめられてたのよ。団地民とか、横長族とか、団地ともえとかってね」


 思わず目を剥いた。それは俺が幼馴染から呼ばれていたあだ名と酷似していたからだ。


「幼少時代のトラウマ、タワーマンションへの対抗心、団地故の劣等感、それが友恵の活力であり、糧だったの。そして今はホテルへの理想やこだわりへと変化している。二十四の若さで総支配人になれたら、そりゃ特集記事も書かれるわよね。怪物だもの」


「に……二十四? マジかよ」


 若いとは思っていたが、いざ知ると驚きを隠せなかった。予想以上に若い。多分、総支配人の前で意外に若いですね、なんて言ったら殺されるな。


「颯斗はそんな人の下で働けてるのよ。しかも特別に目をかけてもらえてるなんて、もっと誇りに思うべきね」


「あんまり期待されてもなぁ」


「友恵はこのホテルに必要だと感じたものは決して逃さないわ。まあ、あなたにその価値があるのか私にはまだわかんないけど」


 恋華は肩をすくめる。


「けど、私は別にそういうのは気にしないから。颯斗には普通に接していくつもりよ。ホテル暮らししてると、長期休みとかは同年代と中々会えなくて寂しいし」


 どうやら一応、学校には通っているみたいだ。

 恋華は一瞬だけ部屋の時計に目を向け、時間を確認する。それにつられて、俺も時計を見た。時刻は午後二時前だ。


「颯斗、お風呂の準備しといてくれない?夕食前に入っておきたいの」


「それなら下の階にある温泉を使えばいいだろ。午後一時から利用可能だし、もう入れるはずだ」


 グランドホテル・ヘブンには、目玉の一つである大浴場がある。それも完全な天然温泉で、近くにある源泉から引き上げている。そのうえ種類も幅広く、露天風呂に壺湯、寝湯やサウナ、ジャグジーなど、お客様にありとあらゆるサービスを提供している。


 ただ場所が一階の奥にあるため、少し行くのに手間がかかる。

 俺が温泉を勧めると、恋華な呆れたようにため息をついて、露骨に嫌な顔をする。


「私は一人で入りたいの。それにわざわざスイートに宿泊してるのよ、露天風呂なんて邪道じゃない。客が部屋風呂の使い方がわからないとかって適当な理由つけて、ホテルマンにお風呂の準備を命令したりすることもあるんだから。あなたはいちいち口答えしないの。さっき言ったでしょ、私がルールなの」


 そう言われるとさすがに言い返せない。それに温泉ある一階の奥まで三十七階のスイートから降りるのは気が滅入るか。


「まあ、仕方ないわよね。颯斗はあくまでスタッフ、実際に住んだことないんだもの。いいわ、ちょっとこっち来なさい」


 恋華は右手で軽く手招きする。俺は素直について行った。

 まず恋華はクローゼットの扉を開ける。扉の裏は鏡になっており、中はまるで部屋のように広い。物置部屋や一般家庭のトイレよりスペースがある。


「この無駄っぽいところ! よくわからないけど凄いでしょ!」


 自分で言いやがった。たしかにこれが必要な空間なのかどうかは疑問だ。

 その奥はドレッシングルーム。中央には大きな鏡が据えられ、引き出しの中にはネイルドライヤーが設置されている。これは女性にとって嬉しいサービスだろう。


 そして最後にバスルームを見せる。豪華なシンクにシャワーブース、大理石の浴槽にはハンドシャワーも備えられ、そのうえ防水テレビまで壁に設置されている。更に通常のシャワーだけでなく、天井にはレインシャワーまでもついている。いや、シャワー多すぎだろ。


「どう? これを見てわかったでしょ? スイートの素晴らしさが」


 ぐうの音も出ない。たしかに無駄に色々ついているが、設備とサービスの量ならどの部屋にも負けていない。特にドレッシングルームは女性にとって重要な役割を担う。


「理解できたみたいね。このよくわからないけどめちゃくちゃ凄いって感じが。それじゃ、早速お風呂の準備して、あなたは私の専属なんだから」


 もうベルの仕事とは全く関係ないな。ルームサービスですらない。だが、ルールブックがお客様にあるのなら、従わないわけにはいかない。


「わかったよ。んじゃしばらく待ってろ」


 俺は渋々、風呂の支度を開始する。その間、恋華はベッドの上で俺が持ってきたホテル雑誌を読み漁っている。


 ただお湯を沸かすだけの行為だが、お客様は神様同然、どんなワガママでも受け入れなければならないのがホテルマンだ。これも仕事の一つ。

 しばらく経って浴槽がお湯で満たされると、俺は部屋でくつろいでいる恋華を呼んだ。


「おい、準備できたぞ。ったく、こんなことでいちいち俺を使うなっての」


「ご苦労様。入浴中、私の話し相手になってもらうから、勝手に別の仕事に行ったりしないように」


「えー、マジで言ってる?」


「当たり前でしょ。こんなのホテルマンなら常識よ。ストーカーからホテルまで逃げてきた女性が、屈強なホテルマンに部屋の前で常に待機しているように命令することだってできるんだから」


「それ実話?」


「友恵から聞いたわ。ほら、コンシェルジュって見た目だけなら強そうでしょ。実際ここでそういうことがあったらしいわ」


 完全に便利屋だな。お客様にとって都合のいい兵隊も同然だ。


「これも立派なホテルマンの仕事よ。あ、あと長旅で疲れてるから、上がったら紅茶ね」


 恋華は綺麗な髪をなびかせながら、バスルームへと向かって行った。


「おい、ちょっと待て、着替えはどうした?」


 俺はそのまま手ぶらで入ろうとする恋華を止めた。手にはバスタオルはおろか、衣服の類は何一つ持っていない。


「え? あっ、ごめーん、うっかりいつもの感じで入っちゃうところだったわ。前までは女の人を専属にしてたから、着替えも任せてたのよ」


 恋華は苦笑いを浮かべ、後頭部に手を回した。


「そういうことかよ。ったく、今度から気をつけろよな。俺が気づいたからいいものを」


「今度から? 何言ってるの? 相手があなたでも関係ないわ。私の着替えとバスタオルは颯斗が準備して」


「……はい?」


 数秒、その場が静寂した。


 俺は自分の耳を疑った。聞き間違いだと思いたいくらいだった。


「あのなぁ、自分が何言ってるのかわかってんのか? さすがにそれはまずいだろ」


 他人に、しかも今日会ったばかりの男に服を選んでもらうなんて、常識的に考えておかしい。なのにそのあどけない表情には、一欠片の邪念も感じられない。これが恋華の本心ということなのだろうか。って、どんな痴女だよ。

 俺は体の温度が上昇していくのがわかった。紅潮する頬を抑えられない。


「お前は良くても俺はダメだ! 恥ずかしくて死んじまう!」


「大袈裟な、颯斗ってば最近の高校生にしてはうぶなのね。わかったわ、なら下着だけは私が選ぶわ」


 恋華はため息混じりに妥協するが、俺はその条件ではまだ不満があった。


「なら、せめてバスタオルとかだけにしてくれ! それなら手を打ってやる!」


「はぁ、しょうがないわね。でも、忘れないでよね? ホテルマンはお客様には絶対、逆らっちゃダメなんだから」


 恋華は腕を組み、ジト目で俺を睨む。一瞬だが怯んでしまった。しかし、やはり限度ってものがある。


 いい加減面倒になったのか、恋華はクローゼットから着替えやバスタオルを取り出す。どうやらやっと折れてくれたらしい。しかし、俺だけ恥ずかしがっててなんだか調子が狂うな。女の子なら少しくらい照れたっていいだろうに。なんかこれじゃ不公平だ。


「ちゃんとそこで待ってるのよ。返事しなかったら許さないから」

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