第6話「グランドホテル・ヘブンの事情」

 場所は変わり、ホテル三十八階のスイートルーム。総支配人の部屋の隣だ。

 俺は本堂先輩と二人で、総支配人に言われた通り清掃と点検、そしてベッドメイクを行っていた。


 思えば、今日は掃除ばかりしている。普段ならお客様のチェックインやルームサービスなど、多種多様な仕事に追われているのだが、今日はたまたまそれがない。暇になった以上、部屋の点検などに回されるのは仕方のないことだ。


「颯斗くーん、この部屋広いねぇ。掃除するのも一苦労だよ」


 そりゃスイートなんだから当たり前だろ、と心の中で毒突いた。ツインやデラックスツインも一人で使えば豪邸だが、スイートはそれを遥かに凌駕していた。こことほぼ同じ部屋を総支配人も使っていると思うと、住む世界が違いすぎて圧倒される。しかしそれも、オーナー兼総支配人という立場だからこそだ。


「けど、あの子がやっと帰ってくるのかー。また忙しくなるなー」


 あの子?いったい誰だ?

 もしかして、さっきロビーで総支配人たちが話していた例のお客様のことだろうか。


「あっ、颯斗くんはまだ新人だから知らないんだよね。あの子、一週間だけ実家に帰省してたから。ちょうど入れ違いだったのかな」


「誰のことですか?」


「えーっと、うーん、どこをどう話したらいいのかなー」


 先輩は苦笑いする。この反応、どうも話し辛そうだ。触れない方が良かったのかもしれない。


「一言で済ますなら、厄介なお客様かな。それもダントツで」


「ストーカーやデリヘルよりも、ですか?」


「あはは、それとはまた厄介のタイプが全然違うよ。普通にいい子だよ、ただちょっと特殊なだけで。まあ、颯斗くんも実際に会えばわかるかな。インパクトは副支配人といい勝負かも」


 あの変態に並ぶ人物。それだけ聞くと相当頭のおかしい客だぞ。これ以上問題児を増やされてはたまらん、このホテルはただでさえ奇人変人の動物園というのに。


「それよりさー、ベッドメイクもう一回教わっておきたくない?」


「あー、そうですね。まだ下手なんで、あと少しだけ」


「だよねぇ。じゃあまずは、ベッドメイクのためにベッド乱しちゃおっか」


 俺は心の中で「やらかした」と呟いた。先輩は目をギラギラと輝かせる。それはまさに獲物を狩る獣の姿だった。


 ベッド、二人、乱す。ギリギリ卑猥な言葉を使わずに、ある行為を表現するために必要な単語は十分揃っていた。


 加えて先輩の甘い声でそれを言われたら、世間の男はもうイチコロだ。俺も今まさに、その一人になってしまいそうで怖い。いっそもう身を投げたい、快楽に溺れたい。


「大丈夫、リードしてあげるから」


 もう既に俺の理性は決壊寸前だった。

先輩は俺の肩に手をかけ、ゆっくりと体を寄せてくる。俺は逃げるように後退りし、壁へとぶつかる。

 まずい、退路を断たれた。


「ねぇ、どうする? 一気に本番までしちゃう? 私もう十分我慢したよ、もうお預けとか嫌だからね」


 十分って、たったの数日の話でしょうが。つうか、この状態だと心臓の鼓動聞こえちゃうかもしれない。めっちゃばくばく鳴ってる。


 歳上の女性が放つ大人の魅力と、ホテルのスイートルームというこの場所が、先輩のエロさを一段と引き立てている。同級生の女子ではこうはならなかっただろう。


「じっとしてて、緊張しなくても大丈夫だよ」


 先輩との距離がさらに狭くなる。もはや俺のパーソナルスペースは完全に侵食されていた。


 あぁ、このまま俺、先輩に食べられてもいいような気がしてきた。なんかもう、本当に落ちてしまいたい。


 ってやべぇ! 今、完全に心奪われてた!


 俺は寸前のところで我にかえる。危なかった、あと少しでもう戻って来れない領域にまで踏み込むところだった。


 つうか、何でこの人は俺にここまでアタックしてくるんだよ。もしかして俺、先輩に遊ばれてるのか? だとしたら、その魔の手に落ちるわけにはいかん。


「初めてでしょ? いいよ、好きにしても。私は颯斗くんにだったら、何されても構わないからさ。あ、あのね、一目惚れだったんだよ? 私、颯斗くんみたいな歳下の可愛い子が好みだったから」


 この距離でその発言はまずい、俺の理性が弾けてしまう。正直、今すぐにでも手を出してしまいたい。けどやっぱりダメだ、先輩の思い通りになってたまるか、耐えるんだ俺。


「こ、こういうのはその、も、もうちょっと段階を踏んでからするべきことであって、こんな突然は」


「あはははは! 颯斗くんのそういう真面目なとこも、私は大好きだよ!」


 先輩は天使のような笑顔でそう言った。ちょっとだけ、ドキッとしてしまった。


「それじゃあそろそろ戻ろっか、あの子が帰って来たら忙しくなるし」


「あ……はい」


 俺はまだ心臓の鼓動が収まらず、惚けた返事をしてしまう。恥ずかしくて死ぬところだった。いや、つうか一瞬死んだ。騙されていたとしても、あれは自分じゃなかったら落ちてたな、俺だから耐えられた気がする。とりあえず、よくやった俺。社会的立場は守られたぞ。


「もう終わったのか?」


突然部屋の入り口から聞き慣れた声が響いた。視線を向けると、扉に寄りかかる形で総支配人が凝視しながら待っていた。


「そ、総支配人!」


「友恵ちゃん、いつからいたのー?」


「颯斗が壁に追い込まれたあたりから」


「んな前からいたなら助けてくださいよッ!」


「まあ、性行為するなら見物するのも悪くないかなって」


 めっちゃはっきり言いやがったよ、この人。てかはなから助ける気はゼロってわけかよ。

 俺は再び安堵を覚える。良かった、理性が保てて。初体験で一部始終を上司に見られるとか死んでも死に切れない。


「しかし、私が部屋に来いと言ったのにお客様のためのスイートでイチャイチャするなど到底許されるはずはない。颯斗、そこに座れ、正座だ」


「え……は、はい」


 俺は言われるがままに従う。ああ、やっぱり怒られますよね。


「普段なら足置きの刑に処すレベルなのだが、今日は少し状況が違う。故に、大目に見てやろう」


 普段だったら足置きの刑とか、俺はそんなハードなプレイ望んでないんだが。


「友恵ちゃーん、なら私を足置きの刑にしてもいいんだよー? 私、友恵ちゃんにならいじめられてもいいからさー」


「本堂、少し黙ってろ」


 先輩はおとなしく口を閉じたが、総支配人の視線が俺に向いた途端、瞬時に総支配人の背後へ回り込んだ。


 そして脇から腕をねじ込み、胸部を鷲掴みした。


「ああ、友恵ちゃんのこのスレンダーな胸、気持ちいいなぁ」


 とろけた笑みで総支配人の胸を容赦なく揉みしだく本堂先輩。

 総支配人はぷるぷると体を震わせ、先輩の腹に肘を打ち込んだ。


「ごふっ!」


 先輩は諸手を上げて床に倒れこんだ。


「ったく、この変態は。女でも男でも気に入った相手には見境いなしだからな」


「はは、総支配人も大変ですね。俺が言えたことじゃないですけど」


「まあ、これさえなければ優秀なフロントなんだがな。オヤジ臭いところが唯一の欠点だ」


 総支配人は呆れたようにため息をついた。


「さと、話を戻そう。貴様にも先に話しておかなければならないからな。この後来る、少し特殊なお客様について」


「先輩も言ってましたけど、いったいどんな方なんですか?」


「ホテルには様々なお客様が来られる。だがその中には数日程度ではなく、長期に渡って宿泊される者もいる。その一人がこの後来る、如月恋華きさらぎれんか様だ」


 なるほど、特殊というのはそういうことか。本当にいるんだな、ホテルをホームにしている人って。


「気に入られれば彼女の専属になれるからな。いい仕事を期待しているぞ、颯斗」


「はい? せ……専属?」


 俺はその意味が理解できず、首をひねった。

 だが総支配人は笑みを浮かべるだけで、何も答えなかった。

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