第5話「変態の巣窟」


「ご苦労、調子のほどはどうだ?」


 エレベーターを出た直後、聞き慣れた刺々しい声が耳に刺さる。

 そこにいたのはこのホテルで最も上の立場にあたるオーナー兼総支配人、木下友恵だった。


「そ、総支配人。えーっと、あ、おはようございます」


「ああ、おはよう」


 朝の挨拶をするが、時刻は既に昼過ぎ、完全な重役出勤である。それだけ彼女の立場が偉いということだ。

しかし、総支配人と副支配人はあまり現場に顔を出さない。そのため、俺はどうして総支配人がわざわざロビーまで足を運んだのか疑問に思い、フロントのコンシェルジュに訊ねた。


「あの、今日ってもしかして大切なお客様とかいます?」


「うん、一人いるよ。このヘブンで最も重要なお客様がね。颯斗くんが会うのは初めてになるんじゃないかな」


 やはり俺の予想は的中した。総支配人は基本的にホテルの方針などを決めているが、現場に出て来る時は決まってビップの対応がある。


「おい貴様ら、私が現場に出向くことがそんなに不思議か? たまにはスタッフと仲を深めようという試みがあるかもしれないじゃないか」


 総支配人から鋭い眼光を向けられた。そして苛立ちを見せつけるかのように、片足で小刻みに貧乏ゆすりを始める。恐らく震度一弱くらいはあるだろう。


「仲を深めにきたんですか?」


「いや、今日来る大切なお客様のために顔を出した」


「結局ビップ対応じゃないですか」


「黙れ、単に決めつけられるのが嫌なだけだ」


 総支配人は見下すように顎を突き出した。

相変わらず面倒くさい性格をしている。まだ働き始めて数日だが、正直これにはもう慣れてしまった。


「本堂と一緒にスイートの点検だ、ベッドメイクの方を教えてもらえ。この後来るお客様が満足するよう、完璧な清掃とベッドメイクをな」


「なるほど、わかりました。って、何で本堂先輩と?」


「今日はハウスキーパーが休養を取っているからな。歳も近いし、この場合は本堂が適任だ」


 さっきのマッサージの件があったせいで、少し先輩とは顔を合わせづらい。結局逃げてきちゃったし。またセクハラされたりしたら、今度こそ俺の理性が吹き飛びそうだ。


「やったー! 颯斗くんと一緒にベッド! ありがとー友恵ちゃん!」


「ちょッ! ほ、本堂先輩!」


 控え室で休憩していた本堂先輩が後ろから抱きついてきた。俺は体をビクッと震わせ、反射的に振り解く。


「仕事中なんですから、こういうのやめてくだないって!あと、ベッドメイクですからね!」


「恥ずかしがっちゃってー、じゃあ仕事中じゃなかったらオッケーなの?」


「オッケーなわけありません!」


 総支配人が、やれやれといった表情でため息を吐く。


「本堂、私のことは総支配人と呼べ。いつもそう言っているだろう、馴れ馴れしいぞ」

「つれないなぁ、友恵ちゃんは別に気にしないくせに」


「そういう問題じゃない。ったく、貴様ときたら、怒る気力も失せてくる」


 先輩は上司であるはずの総支配人に対し、まるで親しい友人のように接する。その独特な雰囲気に、さすがの総支配人もペースを乱されて頭を抱える。

 こんなことは滅多にない。それだけ先輩が扱いにくい困る相手ということだ。ある意味、総支配人の天敵なのかもしれない。

 だが実はあと一人、総支配人の手に余る人間がこのホテルで働いている。いや、総支配人だけでなくスタッフ全員が苦手としている人間だ。


「総支配人。困りますねぇ、ロビーで変な話をされては」


 噂をすれば、その人物の嫌味な声が耳に届く。まさかと思いつつ振り返ると、その厄介なもう一人が立っていた。


「……げっ、副支配人」


 俺は思わず不快な声を漏らす。


「おお、村上か」


「おはようございます総支配人。と言いましても、もう昼ですけどね」


 男の名は村上幸雄むらかみゆきお。グランドホテル・ヘブンの副支配人を務めている。黒髪を整髪料で固めてオールバックにし、黒縁の眼鏡をかけている。まるで絵に描いたような、量産型のビジネスマンといった風貌だ。

 副支配は右手の小指で眼鏡を押し上げる。


「昼までサボっている怠慢、そしてロビーでの品のない会話。やはりあなたはこのホテルには相応しくない。これはもう、総支配人には責任を取ってもらい、その座を私に譲っていただく以外ありませんね。これは当ホテルのイメージに関わる問題ですから」


「あのなぁ村上、そういうことは私のいないところで言ってくれないか? それか口に出すのはやめろ」


「おっと失礼、声に出ていましたか。申し訳ありません。私、何でも包み隠さず言葉にしてしまう性分でして、気を悪くしないでいただきたたっ、たたたッ! あたッ! あたたたッ! い、痛いッ! 痛いです! そ、総支配人ッ!」


 副支配の顔面を右手で鷲掴みにし、指をこめかみの間に食い込ませる総支配人。副支配人が必死に「ギブッ!ギブッ!」と言いながら腕を叩いている。


「ああ、痛いなぁ。貴様のその腐った脳みそは見ていて痛々しいよ。気を悪くするな?無理に決まってるだろ、このクズが。一生喋れなくしてやろうか? あぁ?」


 数秒後、副支配人は顔を抑えながら床に倒れこむ。このホテルのバイトを始めてまだ数日の俺だが、野心家の副支配人が余計なことを口に出し、その度に総支配人から厳しい制裁を受ける光景はもう見飽きている。もはやこれは日常茶飯事のことだ。


「総支配人、お戯れは困ります。私の大切な眼鏡に傷がついたらどうするんですか」


「どうもしない。ていうか貴様まだいたのか、早く私の前から消えろ。目に悪い」


 総支配人は侮蔑を込めた目で副支配人を睨め付け、辛辣な言葉を吐き捨てる。


「あっ、酷い! 私はこんなにも総支配人に尽くしているというのに!」


「足が疲れた。貴様、私の椅子になれ。そうすればさっきの失言はなかったことにしてやる」


「仕方ありませんね、そういうことならば。どうぞ総支配人、私の背中にお座りください!」


 床に手の膝をつき、腰を突き出す変態。総支配人はその上にさも当然のように座り、足を組んで体を伸ばした。

 先ほどホテルのイメージに悪いなどと言っていたばかりの人間が、そのホテルのロビーで明らかに歳下の相手を自分の背中に座らせている。その光景は、見るに耐えなかった。

 俺は失意の表情で視線を逸らす。


 一流ホテルのロビーで、総支配人と副支配人がやることではない。今は昼間の時間帯で、チェックインもチェックアウトもない。故に運良くお客様に見られずに済んだが、こんな光景をお客様に見られたりしたらそれこそ大失態だ。

 俺は二人に幻滅し、深いため息をついた。


「颯斗くーん、こんな変態二人は放っておいてさ、お姉さんと控え室で楽しいことしよー」


 先輩は俺の耳元に息を吹きかけ、少し色気のある声で囁く。やばい、なんか体中がぞくぞくしてきた。


「だからまずいですって! てか、マジでからかわないでくださいよ!」


「えへへー。私さー、君みたいな可愛い男の子が好みなんだよねー。いいでしょー、ちょっとだけでいいからさー」


 べったりくっついて離れず、嫌らしい手つきで俺の体を下からゆっくりなぞる。


「本堂くん、当ホテルでそのような淫らな行為はやめなさい。品位が劣化するだろう」


「えー、上司を自分の背中に座らせてる人には言われたくないんだけどなー」


 副支配人は最もらしいことを言うが、その状態では説得力のかけらもない。


「そっちの女王様プレイに比べたら、私と颯斗くんなんて全然可愛いもんだよねー。颯斗くーん、体は正直だぞー」


 先輩は俺へのセクハラを一切やめない。それどころか段々とエスカレートしていっている。


「離れてくださいッ! マジで勘弁してしてくださいよ!」


 俺は強引に先輩を引き剥がし、コンシェルジュの大きな背中へと非難する。ついに面倒ごとが自分のところにも来たかと、コンシェルジュはそのなだらかな肩を落とす。


「あーあー、颯斗くんってばすーぐ逃げるんだから。お姉さんショックだなー」


 指を咥え、もじもじと体をくねらせる先輩。咄嗟に身の危険を感じた俺は、コンシェルジュの後ろで身震いする。


「本堂くん、あんまり後輩をいじめちゃダメだよ。颯斗くん困ってるじゃないか」


 コンシェルジュが軽く注意する。元々気の強い性格ではないため、あまり厳しく言えないところが少し情けない。普段は頼りになるのだが、仕事以外では途端に弱々しくなる。腰が低すぎるのも考えものだ。


「それに副支配人の言うように、いつお客様が来られるかわからないんだ、やるならせめて事務所の中にしてくれ」


「ちょっとコンシェルジュ! それじゃ何の解決にもなってないんですけどッ!」


「はーい、わかりましたー。じゃあ颯斗くん、裏でいーっぱいエッチなことしよー!」


 先輩は満面の笑みを浮かべて敬礼すると、女の子が言ってはいけない言葉を口にする。


「ついに言ったよ! この人もう隠す気ないよ! はっきり今エッチなことするって言っちゃったよ!」


 俺は勢いのままタメ口でツッコミを入れてしまった。


「フロントクラークと未成年ベルボーイの甘くて淫らな関係、これは大問題ですな。総支配人には責任を持ってやめていただくほかありません」


 副支配人は床に手と膝をついた状態で眼鏡に指を添える。その動作がいちいち鼻につくのは言うまでもない。


「村上、椅子が喋るなよ。少し黙ってろ、うざい」


「おっと、これは上司からのパワハラですな。訴えて総支配人の座から引きずり降ろして見せましょう」


「はぁ、もういい……ツッコむのも面倒だ」


 口を開けば自分が総支配人になることばかり、さすがの総支配人も相手にするのをやめた。ある意味では総支配人を諦めさせたというのは凄いことなのだが、それだけこの男がやばい奴だということも揺るがない事実だ。

どうして総支配人がこの男を副支配人に選んだのか、その意図が全く読めない。


「でーもー、週刊誌の記事を飾るなら、バイトの私たちより顔の知られてる友恵ちゃんと副支配人の方ですよねー。例えば、一流ホテルの若手総支配人と変態副支配人、ロビーで過激なプレイ! とか」


 それがどの週刊誌の記事なのか、容易に想像できてしまう。


「待て本堂! そこは若手総支配人ではなく、美人総支配人だろッ!」


 総支配人はカッと目を見開き、真剣な眼差しでボケた。いや、どうかボケだと信じたい。


「いやいや、ツッコむところはそこじゃないですからッ!」


 美人かどうかということより、もっと他に重要なことがあるだろ!


 ボケにボケが重ねられていくため、ツッコミが追いつかない。


「それにしても座り心地の悪い椅子だなぁ、雑音まで聞こえる。そろそろ買い替え時か」


 ついに副支配人の扱いが生物ですらなくなってしまった。


「待ってくださいッ! クビはやめてください! それだけはッ!」

 

買い替え、という言葉に反応し、副支配人はいつも以上に必死だ。それだけ肩書きや地位に固執しているのだろう。けど、物扱いされることに関してはスルーのようだ。


「なんか逆に尻が疲れた。この椅子はもういらん、捨てる」


「酷いです! 総支配人!」


 副支配人は、もう椅子としての価値も無くなってしまった。


「それより総支配人、もうベッドメイクを始めた方がよろしいのでは? そろそろ時間です」


 コンシェルジュが腕時計に目を向けながら言った。彼が唯一の、このホテルの良心である。


「もうそんな時間か、こんな道端のゴミと遊んでいる場合ではなかったな。おい二人とも、すぐに取りかかれ」


「はーい! りょーかいでーす!」


 先輩は元気よく返事をし、また敬礼した。

そして、ついに副支配人が道端のゴミにまで格下げされた。だがそれはそれで、逆にゴミに対して失礼かもしれない。


「お姉さんがベッドの乱し方からベッドメイクまで全部教えてあげるね!」


「いや、ベッドメイクだけでいいです……」


 そのエロい声で言われると、ベッドを乱すという言葉が異常なほど意味深に聞こえる。


「コンシェルジュ、ゴミ、貴様らには例のお客様に向けて準備をしておけ」


「……例の? あー、あの方ですか。わかりました、速やかに」


 ゴミと呼ばれて返事をする副支配人。先ほどとは打って変わって真面目な顔つきだ。数秒だけ腕時計に目を落とすと、すぐに事務所の方へと向かった。


 総支配人は念入りにお尻についたゴミの雑菌を払うと、俺に指を刺しながら言った。


「颯斗、ベッドメイクや点検を終えたら私の部屋に来い。いいな」

「へ? あ、はい……わかりました」

咄嗟だったため、俺は気の抜けた返事で答えてしまった。

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