第4話「ベルとフロントとコンシェルジュ」

 七月下旬。八月まであと少しというところまで迫る中、俺はラバーカップやデッキブラシを装備し、男子トイレの清掃を行っていた。

 本来ならハウスキーパーの仕事なのだが、今日はたまたま当番の清掃員が急病で来られなくなったため、手の空いている俺が仕方なく掃除に駆り出されていた。

 まだ担当の仕事すらろくに覚えられていないというのに、次から次へと別の仕事が舞い込んでくる。


「しんどい」


 愚痴をこぼしながら、俺はトイレの床をブラシで擦る。

 高校一年生が住み込みでバイトなど、漫画や小説の中だけだと思っていた。だが、実際は中々に過酷だ。ホテルの仕事はそんな簡単なものではなかった。


 だが正直、この環境自体は悪くない。ホテル最上階の宿直室を使わせてもらっているが、住み心地はいい。食事もホテルの賄いを貰えるため困らず、そのうえバイト代も出るのだ。この状況に不満を感じるのは、それこそ贅沢というものだろう。


「颯斗くん、清掃のほうは終わったかい?」

背後から野太い声が響く。振り返ると、撫で肩で七三分けの大男が、俺の視界の七割を埋め尽くしていた。


「はい、あと少しで」


「そうかい。いやぁ、君は真面目で助かるね。じゃあ、それが終わったらフロントの方に来てくれるかい」


「あ、わかりました」


 この図体が無駄に大きい割に不釣り合いなほど小顔の男は、俺の教育係を務めるグランドホテル・ヘブンのコンシェルジュだ。本名は知らない、というか誰も覚えていない。そのため一貫して職務で呼ばれている。それだけ忘れやすい地味で影の薄い名前だったらしい。


 性格は堅物で生真面目。指導の仕方も良く、俺にとっては頼りになる上司だ。ただ、このアンバランスな体型だけが唯一の欠点と言える。


 コンシェルジュはホテルの中でも人気の役職であり、志望者が最も多い。顧客のリクエストや要望に応え、安心なホテルサービスを提供するのがおもな仕事である。人に尽くしたいと思う人にとっては憧れの職業だろう。


 ただ仕事が空いている時はこのように他のスタッフに仕事の指示を出したり、事務的なことも行っている。


 それだけオールマイティに動くため、本人のスペックが非常に重要な仕事だ。

 ちなみに俺は今、このホテルでベルという仕事を担当している。


 通称、ホテルの予約課。仕事が二種類に分かれており、電話でお客様から予約を取ったり旅行代理店や団体の対応する者と、宿泊客を客室まで案内したり、大切な荷物を運んだりする二つの仕事がある。


 そのため暇な時は恐ろしいほど仕事がなく、このように別担当の仕事に回されやすい。


 床の清掃を終え、トイレの詰まり具合を解消すると、俺はコンシェルジュに言われた通りフロントの方へと戻っていく。


 清掃はあまりやらないため特に慣れておらず、少し時間がかかってしまった。軽く肩や腕を回す。

 フロントではら遠目でも目立つ巨体のコンシェルジュと、思わず目を惹かれてしまうほどの女性が待っていた。俺が帰って来たことに気づくと、女性はひらひらと手を振った。


「颯斗くーん、お疲れさまー。女子トイレの清掃楽しかったー?」


「ちょッ! ち、違いますよ! 男子トイレの清掃です! やめてくださいよ本堂先輩!」


 柔らかい口調で俺をからかったのは、フロントの担当をしている同じバイトの本堂真里ほんどうまり先輩。二十歳の大学生で、将来はホテリエとして働くことを夢見ているらしい。そのため今のうちからバイトをして経験を積んでいる。とてものんびりしていて、そばにいると自然と空気が弛緩する。たまにセクハラまがいの発言や行動をしてくることがあるため、免疫の低い俺にとっては苦手な相手だ。


 本人曰く脱ぐと凄いとのことらしいが、その豊潤に実ったバストは制服の上からでもはっきりわかる。


「ねーねー、聞いてよ颯斗くーん。昨日も同級生の男の子に告白されちゃってさー、今年に入ってもう四人目だよー」


 先輩は糸のように細い目で俺を見つめ、薄い茶髪のロングヘアーの先を指にくるくると巻きつける。


 そりゃそんなエロい体とエロい声してれば、世の男どもは放って置かないでしょう。


「まあ当然、断ったんだけどね。私は颯斗くんみたいな歳下の可愛い子が好みだからさー」


「からかわないでくださいよ。てか、コンシェルジュは? 俺さっきフロントに来いって言われたんですけど」


 俺は先輩から目を逸らす。その破壊力のあるボディをこれ以上見ているのは危険だった。


「からかってなんかないのになー。あっ、それと颯斗くんを呼んだのは私ね」


「え、本堂先輩が? なんで?」


「入ればわかるよー、ほら」


 先輩は両手を広げ、俺をフロントの中へと招き入れる。フロントの奥は事務室になっており、その隣が俺の使っている宿直室、奥は控え室と喫煙室がある。控え室の中にはロッカーや仮眠用の簡易ベッド、それに冷蔵庫やポットなどがあり、従業員が休憩する際に使用する。


「じゃあ私、今から休憩入りまーす。それと颯斗くんも少し借りていきますねー」


「は? 借りるって、どういうこと?」


 コンシェルジュは頭の上に疑問符を浮かべる。それは俺も同じだった。


「颯斗くーん、実はずっとフロントに立ちっぱなしだったから足が疲れちゃったの。だからマッサージお願いできるー?」


 先輩は俺の両手を握り、顔を鼻先まで近づける。

 女の子独特の良い香りがする。それに手も、なんというかすごくて柔らかくて暖かくて、気持ちいい。


 これは、健全な男子高校生には刺激が強すぎる。その行為そのものではなく、先輩のもつ魅力が危険なのだ。


「いや、でも俺マッサージとかしたことないんですけど」


「大丈夫ー、私は君にしてもらえればなんでもいいんだよー」


「え? それってどういう」


 言い終える前に、俺はそのまま強引に控え室へと連行される。


「ハイヒールで立ってるのって結構しんどいんだよねー、ふくらはぎが痛くて痛くて」


 先輩は簡易ベッドの上でうつぶせになり、綺麗な足を見せつける。


「ふふ、優しくしてね」


 そんな声で頼まれたら断ることなど不可能だ。俺は震えながら、ゆっくりと先輩のふくらはぎに手を伸ばし、痛くしないように優しく肌に触れた。


「ん、そう、上手だよ、あっ! き、気持ちいいところに、指、当たってる! んッ! ああ!」


「先輩、変な声出さないでくださいよッ!こっちが恥ずかしくて死んじゃいます!」


 やばい、これは非常にやばい。心なしか体が熱くなっている気がする。


 俺は慣れない手つきで、徐々に指先へと力を加える。その度に先輩が体をくねらせて妙な声を上げるので、俺の理性は崩壊寸前だった。


「颯斗くん、もう少し上もお願いできる?」

「へ、もう少し上? ちょ、ちょっと、さすがにそれは」


「えー、お願い、君じゃないと嫌なの」


 先輩は足をパタパタさせながら、艶のあるあだっぽい声を漏らす。これより上となると、もうそこはお尻である。女の子のお尻、十五歳の俺にとって、それは完全なる未開の地、言うなれば新大陸だ。


 正直言うと、上陸したい。だけど、さすがにそれはやりすぎな気が。


「おーねーがーいー!」


 先輩は子供のように駄々をこねる。


「すみません! 俺やっぱこれ以上は、む、無理っす!」


 俺は恥ずかしさのあまり耐えられなくなり、逃げるように控え室を飛び出した。


 フロントに戻ったが、俺は未だにそわそわしていた。

 手に残る先輩の感触、太ももの柔らかさに己の心を奪われかけていたのだ。真面目に仕事をしようと思っていても、頭の中にさっきのイメージが湧き上がってきてしまう。


 くそ、何やってんだか。こんなんだから先輩にもからかわれるんだ。


 俺はくしゃくしゃと頭をかいた。


「どうしたんだ颯斗くん。顔赤いけど、具合でも悪いの?」


 何故か先輩の代わりにフロントに立っているコンシェルジュが、心配そうに声をかけてきた。

「いえ、大丈夫です。ていうかなんでコンシェルジュがフロントに?事務作業とかはいいんですか?」


「ああ、それは急ぎの仕事じゃないからね。フロントはお客様が来ない時間は基本暇だけど、ベルと同じで電話対応とかもあるし、本堂くんの休憩が終わるまでの間だけね。しかし休憩中に颯斗くんを使って、いったい何をしていたんだい?」


「な、何もしてませんよ! 何も!」


 俺が不自然なほど必死に否定するので、コンシェルジュは眉根を寄せる。


「そ、それよりコンシェルジュ、な、何か他にやることってありますか?」


 俺は適当に話をすり替えようと、仕事の話題を振った。


「そうだね、ならお客様のいない部屋の点検と会員の方の部屋に水のサービスをお願いできるかな」


「了解です。早速行ってきます!」


 俺は敬礼でもするかのように背筋を伸ばし、二つ返事で了承した。

 コンシェルジュは仕事に勤勉で誠実だ。それにきつく叱ったりもしないため、スタッフからの信頼は厚い。


 いま俺が言われたのは、部屋の点検。要は清掃がきちんと行われているかどうかなどの確認。会員のお客様に対しての水のサービスも、部屋点検の一つだ。その辺の手配がちゃんと行き届いているかどうかは、しっかりと現場のスタッフが確認しなければならない。

基本的にお客様が朝にチェックアウトするため、清掃や点検は昼間に行う。夕方になればお客様がチェックインし、注文を受けたらタオルや氷などを持っていく。


 俺は空いている客室を回り、確認と点検を行った。グランドホテル・ヘブンは他のホテルより部屋の数も多いため、中々にこの作業は大変である。

 仕事を全て終え、俺は疲労を露呈させながらロビーへと戻った。

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