第3話「摩天楼ホテル」

「おい、着いたぞ」


 気がつけば、俺はグランドホテル・ヘブンの真ん前にいた。

 やばい、完全に逃げ場を失った。

 勢いでホテルまでついてきてしまったが、自分には働く意思などない。


 しかし初めて来たが、さすがに生で見るのと雑誌やテレビで見るのとではわけが違うな。


 目の前にそびえるホテルは、まだ入り口をくぐってすらいないというのに、その神々しさに押し潰されてしまいそうなほどだった。高さはタワーマンションよりも低いが、それより遥かに異常な存在感を放っている。


「貴様も言いたいことは色々あるだろうが、とりあえず私の部屋に来い。そこでゆっくり話し合おうじゃないか」


「は、はぁ……わかりました」


 ホテルに入るとスタッフから「おかえりなさいませ」と挨拶され、思わず俺も頭を下げる。


 頭を上げると、俺は目の前の奇妙な光景に眉をひそめた。

 一階のメインエントランスには、どういうわけかフロントらしきものが見当たらないのだ。

 俺は視線を一周させるが、何度見返しても結果は同じだった。


「おい、何をキョロキョロしている。ほら、こっちだ」


「あ! は、はい!」


 モヤモヤした疑念を残しながらも、俺は黙って木下について行った。


「あ、あの……さっき私の部屋って言ってましたけど、それって何階なんですか?」


「ん? 貴様、それは愚問だぞ。私はこのホテルのオーナー兼総支配人。当然、最上階一個下のスイートが私の部屋だ」


「す……スイートに住んでるのが当然って」


 木下はどうして理解できないんだ? とでも言いたげな表情で俺を見る。その目は少し呆れているようだった。


 あまりにも俺と次元が違いすぎるため、驚くどころか逆に気持ちが冷え切っていた。何が愚問にあたるのか全く理解できない。


 地上三十九階あるホテルをエレベーターで上がっていくのは、中々時間がかかる。

 俺はエレベーターの中にいる間、一階で感じた疑念を彼女に訊ねた。


「あの、このホテルってチェックインはどこでするんですか? 一階にはフロントとかなかったみたいなんですけど」


「あー、そのことか。うちのホテルは少し特殊でな、一階ではなく最上階にレセプションを設けているんだ」


「さ、最上階?」


 それはこのホテルを訪れた人間にとって、決まり文句に近い質問だったらしい。しかし、それは当然の疑念だろう。九割の人間が不思議に感じる。


 普通、フロントはホテルの一階にあると思うものだ。旅行客がホテルに入ったら、まずフロントから探す。見当たらなければ、自分は建物を間違えたのではないのか、と疑問を憶えるほどだろう。


 いったいどういう打算が働いているのか、素人の俺にはわからない、超一流の経営者として名高い人物が、何の意味もなくフロントを最上階に設けるとは思えなかった。


「しかし……なんでまたそんなところに?」


「その質問の返答には慣れている。答えは、全てのお客様に最上階の素晴らしさを堪能していただくためだ」


「最上階の……素晴らしさ?」


「ああ、そうだ。ホテルでは通常、最上階に高級スイートが設けられている。そのため、一般家庭のお客様には手の届かないところとなってしまう。だから私はその不平等をなくすためにフロントを最上階に設置し、お客様が最上階の景色を見て楽しむことができるようにしているということだ。全てのお客様にとって、それが最良のもてなしになるかどうかは私にだってわからない。当然、チェックインやチェックアウトが楽な一階にフロントがあってほしい、そう感じる方もいる。しかし、私はより多くの人間が、ホテルの高層に憧れていると考えた。ただそれだけだ」


 彼女はホテル経営における己の理論を、自信を持って答えた。それが正しいかどうかなど、誰にもわからない。だがそれも一つのホテルのもてなしであり、より最良に近い選択だと判断したのだ。


 それは、所詮ただの高校生にすぎない俺には理解できない領域だった。

 木下友恵という人物から、本当に強いホテル経営への想いや信念のようなものが感じられた。


「あと、私の部屋からフロントが近い方が仕事的に助かるし」


「いや、それただあんたが一階まで降りるの面倒だっただけだろ」


 返せ、さっきまでの俺の気持ち。くそ、めちゃくちゃ損した気分だ。


 だが事実、一階から最上階まではかなり時間がかかる。それは俺が今まさに、このエレベーターの中で体感している。


 オーナー兼総支配人である木下にとっても、このホテルを訪れるお客様にとっても、最上階にフロントがあるということの意味は大きいのかもしれない。


「ホテルとは、お客様により快適な気分になってもらうことを心がける。多くの方が、最上階を夢のような場所だと思うだろう。だからこそ私は、その夢を叶えてやりたいんだよ。私がそうだったようにな」


「夢……ですか」


 木下は壁に背を預け、軽く腕を組んだ。


「そうだ。私たちホテルマンは、ホテルに訪れるお客様の夢を叶える。こんな仕事は他にはない。どうだ、素敵だと思わないか?」


 一瞬だが、俺の心が少しだけ揺れたような気がした。


 しかし、やはり俺には無理だろう。夢を抱いたこともない欠陥品に、他人の夢を叶える力などあるのだろうか。逆に少し、気持ちが卑屈になっていた。


 長い間エレベーターに揺られながら、俺たちはやっとのことで最上階の一個下、三十八階へとたどり着く。


 エレベーターホールも廊下も、さすがはスイートの階というだけのことはあった。広々としていながらも無駄がなく、インテリアのバランスや配置、何もかもが場の雰囲気からオシャレな感じる。


「ほら、こっちだ」


 案内されて部屋に入ると、木下はまず俺にコーヒーを振る舞った。

 俺は熱いコーヒーを飲みながら、スイートルームの中を一通り観察する。

 独立したリビング、豪華なソファ、大画面のテレビ、部屋のイメージに合った装飾、そして高層階の眺めを堪能できる大きな窓。


 これが一流ホテルのスイートルーム。俺とは住む世界が違う。この部屋に一人暮らしって、少し贅沢すぎやしないだろうか。


「どうだ? 団地を縦に長くしただけのタワーマンションとはレベルが違うだろう。これが一流ホテルだ。私が心血を注いで手に入れた。誇りに思え、貴様はこの私の後継者になるべき資質を備えているんだからな」


「いやいや、それ俺の家からずっと言ってますけど、資質ってなんなんですか? 悪いけど、俺は経営学とか全然、そもそも勉強全般そこまで得意じゃないし」


 自分で言っていて恥ずかしくなってきた。何で俺は勝手に自虐してるんだよ。


「勉強? ふん、そんなものは必要ない。貴様は幼き日にタワーマンションへの劣等感を覚え、強く憎んだ。そして何より、私と約束を交わした。後継者になれとは言わない、それはあくまで私の理想だ。資質があるというだけの話だからな。ただ、私は八年前に約束している。貴様に夢を与えてやると。今なにか、目指しているものはあるのか?」


「い、いや……特にはないですけど。行きたい大学もなりたい職業も、何も」


「なら、私に賭けてみないか?」


「か……賭ける?」


「そうだ。まずは夏休みの間だけ、このホテルで一緒に働いてみないか? もしそれで何も得られず、今と気持ちが変わらないのであれば、私はもう貴様を無理に誘ったりしない。だがもし何か一つでも、やりたいこと、己の夢を見つけたならば、それを私と一緒に叶えてみないか? 葛原颯斗」


「俺の……やりたいこと?」


「そうだ。このまま特に何にもチャレンジせずに学生生活を終えるのではなく、一度ギャンブルに身を投じてみるのさ。それもまた一興、人生というものだ」


 俺の頭の中で、様々な思考が駆け巡った。

この十五年、特に何かをやりたいと感じたことなど一度もなかった。ただ何事もなく、平穏な日々を暮らせればそれでいい。適当に大学に行って、適当に就職して、適当に結婚して、適当に死ぬ。


 いつからか、それが己のゴールなのだと、俺は勝手に決めつけていた。

 俺なんて、所詮その程度のものだ。常に自分を低く考え、卑屈になっていた。


 だがこの人はそんな俺に、脱却するチャンスを与えようとしてくれている。

 今を逃せば、俺はまた戻ってしまうんじゃないだろうか。昔の、適当に生きていた、夢も希望もない、現実主義者の自分に。


「はは、夢か。たしかに俺はそんなもの持っちゃいないな」


 一気に体の力が抜け、俺は椅子の上に崩れ落ちた。


「あんた、口が上手いな。そんな風に言われたら、自信がないのに期待が膨んじまったよ。柄にもなくな」


「褒められるというのは嫌いじゃないぞ。しかし、中々落ちるのに時間がかかったな」


「そりゃ、あんたに頼まれたら誰だって断ったりしないでしょ。普通なら瞬殺だ。なんたってこのホテルの総支配人なんですから」


「ふふっ、そうだな。ただまあ、その敬語とタメ口が混じった妙な話し方は直した方がいい。これから私のことは総支配人と呼べ。よろしくな、颯斗」


「はい。よろしくお願いします、総支配人」


 この日から、俺のグランドホテル・ヘブンでの日常が始まった。

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