第2話「一流ホテルの女帝は団地とタワーマンションを最も嫌う」

 七月十九日。

 明日に夏休みを控えた終業式。


 水分補給が不可欠な猛暑の中、俺を含めた全国の学校の生徒たちは今、体育館で校長の長い話を延々と聞かされていた。

 体育館はまさに蒸し風呂と言わんばかりに熱気が立ち込めている。扉も解放され、扇風機もいくつか回ってはいるが、それでも尋常ではない暑さだ。


 大切なことを俺たち生徒に聞かせているつもりなのだろうが、八割、いや九割近い生徒がそんな話どうでもいいと思っていることだろう。正直、俺もその一人だ。


 隣に立っている生徒も、退屈そうに大きなあくびをしている。気持ちはわかるが、せめて口くらい手で抑えろ。


 だが普段と違って昼前に下校できることを考えたら、これくらい特に気にするほどでもない。というより、むしろ安いコストだ。


 ただ耐えればいい、それが少し永遠のように感じるだけだ。

 俺は片足を交互に休めながら、僅かながらに気を紛らわせていた。


 話を聞くこと二時間、長かった終業式もやがて終わりを迎える。

 その後、教室で軽くホームルームをし、生徒は下校となった。部活動に所属している者はそれぞれの部活で夏休みに向けてのミーティングが行われるが、帰宅部の俺は全く関係ない。


「おーい下層民、一緒に帰ろ」


 教室を出る際、背後から見知った声に呼び止められる。

 俺はわざと嫌そうな顔をしながら振り向いた。


「下層民って言うな。てか、何で俺?」


「何でって、同じマンションじゃん」


 声の主は、幼馴染の安西莉奈あんざいりなだった。彼女もまた、俺と同じように部活動などには所属していない。特に断る理由もないため、俺は渋々一緒に下校する。


 本気で嫌というわけではなかったが、女子と二人で下校しているところはあまり他の生徒に見られたくなかった。学生ならではの小さな悩みである。


 校門を過ぎると、この学校の名物、通称『なげき坂』が見えた。

 俺たちの通う鳴村なきむら高校は小高い丘の上にあり、斜度の高い激坂を上り下りしなければならない。


 この立地は、一般教養の公立高校では非常に特異だ。そのため、生徒のほとんどが自転車を使わない。

 だがこの激坂はヒルクライムに適しており、運動部の体力練習で活用されている。

 バスは校門の前にあるバス停で停まってくれるが、乗り遅れたりした場合は激坂を相手に遅刻と闘わなければならないため非常に絶望的だ。


「ねぇ、あんた夏休みどうすんの?」


 放課後、激坂を下りながら莉奈が訊ねた。


「別に、特にやることないかな。毎日を適当に生きていくだけ」


 高校生活最初の夏休み。部活やバイトなど、過ごし方は色々あったが、俺は特にこれといって予定もなかった。

 思春期真っ只中ではあるものの、やりたいことなど一つもない。


「寂しいやつ、バイトとかしないの?」


 莉奈は呆れたように目を細めた。


「バイトって、そんな簡単に言うなよ」


「あたしは始めようと思ってる。うちの学校は特に禁止してないし、社会勉強にもなるから」


「いいんじゃねーの、好きに始めたら」


 まるで興味がなかった。

 俺が投げやりに答えると、莉奈はわかりやすく不満そうな顔を浮かべた。恐らく、やる気のない俺に少しでも興味を持って欲しかったのだろう。だが、結局のところ今のままで落ち着いてしまう。マンネリ化する日々からは抜け出したいとは思うが、やはりそう簡単なことではなかった。


 俺だって、何かやりたいことや生き甲斐のようなものを見つけたかった。しかし、いつも通りに流れていく日常の中で、俺の好奇心や興味を刺激するものには出会わなかった。

 夢、それはある意味で俺の憧れだ。何か一つでも持つことができたら、少しは変わるのかもしれない。そんな淡い期待があった。


 話しているうちに激坂を下り終え、俺たちは学校の最寄り駅へと到着していた。

 まだ昼前ということもあり、駅内にいるのは鳴村高校の学生ばかりだった。


 男女二人で下校しているということもあり、周りの連中がヒソヒソと話しながら俺たちに視線を向ける。


 俺はともかくとして、莉奈は割と異性の間では人気が高い。

 身長も女子高生の中では平均的で、体型もスレンダーな貧乳だ。しかし、細身であるためそれもあまり目立たないという少しずるい体つきをしている。顔立ちは若干まだ幼く童顔だが、俺以外の男子には喋り方も冷ややかなため、容姿よりも大人びた印象を受けるらしい。そのため一部のマニアックな男子たちから絶大な人気を誇る。


 今は黒髪を肩あたりまで伸ばしているが、彼女は毎回この時期になると髪をショートに変えるため、恐らくこのセミロングを見れるのも今のうちだけだろう。


 性格は良くも悪くも真面目で、常に落ち着いている。

 あまり他者へ笑顔を見せないため、気持ちがどうしても伝わりにくいというのが唯一の難点と言えるだろう。


 幼馴染じゃなかったら、俺もある程度の好意は抱いていたかもしれない。

 今は少しだけ、敷居が低い。


 電車に揺られること二十分。その間も適当なやり取りを繰り返していた。

 俺と莉奈は電車を降り、同じマンションへと足を向けた。


 だが、そこは普通のマンションではない。

 最寄り駅からもその存在を確認できるほどに背の高い、いわゆるタワーマンションというやつだ。


 俺、葛原颯斗くずはらはやとはタワーマンションの下層で生まれ、下層で育った。

 都心の利便性と、立地に恵まれた地上五十六階の高層マンション。約千以上の世帯が生活している。もはや一つの街とも呼べる空間。


 同じタワーマンションの高層階に住む莉奈からは、下層にするんでいることをバカにされてきた。我が家は二階にあるため、タワーマンションのタワーっぽさに全く浸れていない。それが子供の頃からの悩みの一つでもあった。莉奈と一緒にエレベーターに乗るのは、少し気が引ける。それは俺が二階に住んでいるため、すぐにエレベーターを止めてしまうからだ。高層階に住んでいると、途中で止められることはストレスになるらしい。


 だがそんな彼女とも、なんだかんだ小中高とずっと一緒だ。そして今ではすっかり腐れ縁の仲なのだから、人生とは不思議なものである。


 タワーマンションの数がまだ少なかった頃は、その豪快さに多くの人々が憧れた。だが、今では特に珍しくもない。むしろ普通、平凡。

 都心であるが故に気付きにくいが、実際に住んでみるとその不便さを痛感する。

 特に俺の住む二階と、高層階に住む莉奈は悲惨だ。

 下層の場合は階段がないため、いちいちエレベーターで上がらなければならない。

 高層階の場合も、上り下りの際に途中で何度も止まってしまうため、急いでいる時などは中々下に行けず苦労が絶えない。


 景色こそいいのだが、それで中和できるほどの魅力はない。


「あんたはいいわよね、下層民だから帰りが楽で」


「下層民って言うな。エレベーターのボタン全部押すぞ」


 俺はそっとボタンの前で指を構えた。タワーマンションにおいて全て階で毎回止められる行為は高層階であればあるほどに悪質になる。


「うわ、それ地味に一番嫌なやつ」


「冗談、さすがにそんな陰湿なことはしない」


 というより、嫌がらせする側も全部の階のボタンを押すのは結構だるい。

 子供の頃はそうでもなかったが、成長するとその行為の虚しさを痛感する。


「じゃあな、そんじゃまた夏休み明け」


「課題、どうせ溜め込むんでしょ。後で手伝いに行ってあげる」


「そりゃどうも」


 俺は莉奈と別れ、自分の部屋へと向かう。高層階ではないためあまり景色は良くないが、部屋自体は中々に住み心地がいい。


「ただいまぁ、ふあぁ」


 俺は欠伸あくびをしながら扉を開ける。その時、玄関に妙な違和感を覚えた。

 見慣れない靴が置いてあったのだ。女性用、それも結構高価なタイプの。


 客か?

 俺は頭の上に疑問符を浮かべ、軽く耳を澄ましてみる。


 するとリビングの方から、母親と誰かの話し声が聞こえてきた。どこかで聞いたことのある声だったが、声の主は思い浮かばなかった。


 俺は恐る恐る、玄関、廊下、リビングと進んでいく。普段と何一つ変わらない我が家だ。しかし、今日は何故か異質に感じた。

 その原因は、リビングで母親と向かい合って座る、一人の女性。


 彼女は来訪者に気づき、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がった。


「待っていたぞ、葛原颯斗。約束通り、迎えに来てやった」


「へ、や、約束?」


 彼女は偉そうに、高圧的な態度で、慎ましやかな胸を張る。その表情はどこか快活だ。

 パッと見、年齢は二十代。背は俺よりも高く、体型は細身。艶のある黒い髪は腰のあたりまで伸びている。特に際立った印象もないというのに、妙な異彩を放っている。


 端正な顔立ち、それは隣にいる人間が彼女によって霞んで見えてしまうほど。恐らく万人が口を揃えて美人と答えるだろう。

 だがその優れた容姿よりも、彼女の存在感は圧倒的なものだった。


「この方は木下友恵きのしたともえさん。ほら颯斗、挨拶」


「あ、ど、どうも。葛原颯斗です」


 母親に促され、俺は会釈する。


「なぁ、母さん。この人いったい何者?」


「私の口から話そう。私はグランドホテル・ヘブンのオーナー兼総支配人、木下友恵だ。よく覚えておけ」


「グランドホテル、へ、ヘブン? って、ええええぇっ!」


 驚愕のあまり声を荒げ、俺は呆然と立ち竦んでしまう。

 グランドホテル・ヘブン。都内でその名を知らぬ者はいない。

 まだできて一年ほどだが、選ばれた超上流階級の人間ばかりが宿泊する、いま最も注目されている一流ホテルだ。


 その名に恥じない天国のような居心地の良さ、加えてスタッフの評判もすこぶる高い。

 このタワーマンションがもはや古代文明になるレベルの超一流ホテルである。


「な、何でそんな人が俺の家に?」


「ん? ほら、言っただろう? 迎えに来たと。貴様を私の後継者として、スカウトにしに来たのさ」


「こ、ここ…後継者?」

 俺はこの人が何を言っているのか理解できず、混乱した。唇も震え、口調がおぼつかない。

 それは高校生の脳みそでは処理しきれない内容だ。


「葛原颯斗、貴様は私の後継者としての大切な資質を持っている。今のうちから仕事を身につけ、将来的には私の跡を継いでほしい」

「あの、やっぱり何かの間違いではないでしょうか。うちの颯斗に限って、そんなことはないと思うのですが」


 震え気味な声で母が言った。他人に言われると少しくるものがあるが、正直その通りだ。俺にホテル経営の資質などあるわけがない。


「いや、お母さんは知らないだけですよ。息子さんの資質を」


 木下友恵は不敵な笑みを浮かべる。

 刹那、俺の体に悪寒が走る。まるで、背後から捕食者に追われているような底知れない恐怖を覚えた。


 そして直感した、俺はもうこの人から逃げられないのだと。それはまさに生物の、生まれながらに持つ本能的な何かだった。


「覚えているか? 八年前、団地の前にある公園で、私と会ったことを」


「は、八年前?」


 俺は記憶の引き出しを整理した。八年前となると、まだ俺が小学一年生の頃だ。

 だがさすがにそんな昔の記憶、鮮明に思い出せるはずもなかった。


「覚えていなくても無理はない。貴様は私と違って幼かったからな」


「……ん、貴様? あっ! も、もしかして、あんたあの時の!」


「颯斗、知り合いなの?」


 不安そうな顔で、母が俺に訊いてきた。


「昔、俺が小学生だった頃に少しだけ話したことがあるんだ。さすがに八年も経つと曖昧だけど」


 俺は失われかけていた記憶を絞り出す。この尊大な口調、確かに覚えがあった。


 制服を着てたから、あの時はまだ学生だったんだろうけど。って、当たり前か。

 制服がスーツになっただけなのに、なんだか随分と印象が違う。


 ある一部分だけは全然変わってないみたいだけど。

 俺の視線は自然と彼女の胸元へと向いていた。


「おい貴様、いったいどこを見ている」


「あっ! い、いや、別に何も」


 やばい、バレたか?

 木下友恵の鋭い眼光が突き刺さる。どうやら胸がないことを気にしているらしい。深く触れるのはやめておこう。


「ちっ、失礼なやつだ。まあいい、今はそんなことでいちいち腹を立てている場合ではないからな。表に車を停めてある、乗れ」


「え、い、今から?」


「そうだ、そのためにわざわざ夏休みの前日に来たんだろう。今日から貴様は、私のホテルに住み込みで働いてもらう」


「ちょっと待って! す、住み込み?」


「もちろん。貴様にはこれから私の後継者としてホテル経営を学ぶ必要があるからな」


 急展開すぎる。そもそも約束だって八年も前のことなんだぞ、心変わりしてるかもしれないのに、何でこの人は自信に満ちた顔でさも当然のように言ってるんだよ。


「母さんはいいのかよ、俺が住み込みで働くとか!」


 俺は声を張り上げ、母親へと向き直った。


「うーん、たしかに住み込みはやりすぎな気がするけど、あんたどうせ夏休みにやることないじゃない? 特に補習も部活もないんだし」


「だからってなぁ」


「それに、木下さんは経営者としては雑誌に載るくらい凄い人なのよ。私もまだ信じられないけど、そんな人があんたをスカウトに来るなんて、この先もうないかもしれないじゃない。いい機会だから行ってきないよ。お父さんにはもう話してあるから」


 母の口調からは諦めたような気持ちが感じられた。


 つまり、親父も既に了承済みってことかよ。俺がこの人のホテルで働くことに何の抵抗もないのか、明らかにやばいタイプの人な気がするんですけど。俺がこのタワーマンションに住んでいるのは知ってても、部屋まではさすがにわからないはずだ。そのうえで俺の高校の一学期終了の日まで調べてるとか、絶対普通じゃないって。


 ここは俺がはっきり言うしかない。こういう時は本人の意見が最も尊重されるはずだ。


「あの、すみません。約束とか正直あまりよく覚えてないので、この話は無かったことに」


「貴様に拒否権はない。行くぞ」


 えぇ……なにそれ酷くね。今ちょっと涙出そうだったよ俺。要ははなから話聞くつもりないってことじゃん。


「お母さん、後のことはこの私にお任せください。もし息子さんの様子が気になるようでしたら、いつでもいらしてくださいね」


「はい。それじゃあ息子のこと、よろしくお願いします」


 母はもう完全に受け入れ、深く頭を下げた。


「いやいや! そこは止めろよ!」


 結局、俺の反論は全て無視され、ほとんど強制的に車へと連行された。

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