第2章 第2話

 私、浅野あさの神樂かぐらは非常に焦っていた。別に命の危機に晒されてるわけじゃない。いや、このままいったら最終的にそうなるかもしれないが、あくまで可能性の話だろう。


「神樂、大丈夫? 1人で着替えられる?」


 部屋の隅にいる私をクラスのみんなから隠すような位置に立っているのは、藍の姿をした成平さんだ。


「いや、大丈夫なんだけどねぇー、これ体育着たいいくぎだと羽透けるよねぇー」


 私の背中に生えた羽は、付け根から先まで隙間なく折りたたむことで隠している。だけどその凹凸おうとつと肌とは明らかに違う銀色が体育着だと透けてしまうのは、間違いない。何らかの対策をしておけという話なのだろうが、家にジャージを忘れたのだ。どうしようもない。


 言い訳をさせてもらえるのなら、先日の機神type蜘蛛の一件が公表され、学校が2週間の間休みになったのだ。それだけ間が空いたのだから、体育の存在を忘れていても仕方がないではないか。私が悪いのは認めるが。


「シャツを着てもダメなの?」


「ダメだと思う」


 機神という存在が知られているとはいえ、それが身近にいるとなれば周囲の人間にとってはただ事ではないだろう。それでも私が危険を冒してまで学校に通い続けているのは、日常を繰り返し続けることが私という機神の願望だからだ。


「しょうがない、私のジャージ貸すわ」


 藍の姿をした成平さんが長袖のジャージを取り出し、こちらに渡してきた。


「ありがとう藍、助かるよぉー」


 最近の気温は、暑いのと涼しいのをいったりきたりだ。長袖のジャージを着ていたとしても、まぁ言い訳はできるだろう。



 二学期が始まって何度かの体育は、体力測定が主になってくる。握力などの2人1組で記録するだけのモノは数値を誤魔化せばいいだけだが、他の人と一緒に動いて記録を取るタイプの、例えば50メートル走などは細心の注意を払わなければならない。特に意識せずにいれば、機神となった私の体では容易に世界記録を出してしまうだろう。


「ねぇ神樂、一学期の私の記録ってどんなのだったっけ?」


 成平さんは何年ぶりかわからない体力測定、しかも他人の記録をマネしなくてはいけないということだが、心配する必要はないだろう。藍からすれば忌々しいが、彼女の抜け目のなさは信用していい。


「記入用紙に載ってるよぉー。特別運動が得意ってわけじゃなかったし、確か中の下くらいだった気がする」


「ちなみに神樂は?」


「私は上位だよ! これでも運動部の助っ人に呼ばれたりもしてたので!」


 雑談を交えながら、シャトルラン以外の測定を終えた。私は前回の記録の1.2倍くらいの好成績を叩きだしてしまったが、逆に成平さんは前回と全く同じ記録である。それはそれでどうなんだろうかと思わんでもないが。



 シャトルランの人数が3分の1程度まで減ったあたりで、私はリタイアした。機神になった私たちはほとんど疲れを感じないため、疲れている素振りをしながら、切りの良いところで終わりにした。


「お疲れ神樂ちゃん。神樂ちゃんはだいぶ記録伸びたね」


 成平さんと話していたクラスメイトのともちゃんが、駆け寄って声をかけてくる。


「夏休みの朝は毎日ランニングしてたからねぇー」


「あんな炎天下の中でよくやるわ。私には信じられないもの」


 本当は夏休みにランニングなどしていないが、こうでも言っておかなければ急に記録を伸ばしたことになって怪しまれるかもしれない。幸いなことに、智ちゃんは疑わずに納得してくれた。


「それにしても、あのだいぶ頑張るわね」


 成平さんの視線の先にいるのは、残り1人で永遠と走り続けている隣クラスの少女だ。去年もクラス違かったから親しいわけではないが、名前は笹原ささはら朱希あきだったはず。部活に入っていた覚えはない。


「一学期は最後まで走り切ってたよ。でもどこの運動部にも所属してないんだってさ」


 智ちゃんの言葉に、そういえばそうだなと思い出した。既に少し息があがっているが、このままなら前回と同様に百回に到達するだろう。そしてその予想は裏切られることなく、彼女シャトルラン終了を合図に授業は終了した。



 体育さえ乗り切ってしまえば、その後の授業は何事も無く終える。帰りのHRの後は、教室の清掃当番だけだ。


「神樂、今日は用事があるから先に帰るね」


「うん、おっけぇー」


 成平さんはこれから用事があるらしい。クラスメイトが、神樂と一緒に掃除してから帰るといっていた藍が先に帰るなんて、と戦慄しているが気にしないでおこう。


「もうすぐ1週間かぁー。ようやくあの成平さん相手に話すのに慣れてきたなぁー」


 藍の見た目をしたモノの中身が、ずっと年上として接してきた成平さんだというのだ。どうにも敬語で話しそうになってしまう。加えて、藍が彼女のことを快く思ってないから、気を抜くと影響されて口の悪い言葉が出てしまいそうになる。


「智ぉー、さっさと掃除終わらせて一緒に帰ろぉー」


 私はスクールバッグを廊下に投げて、教室の机運びに向かった。


◇ ◆ ◇


 昨日から、私を誰かがつけている気配がある。まぁ考えれば当然なのだが。今の私は機神type蜘蛛スパイダーたる榎園藍の姿をしており、本当ならば人間の姿で生活していることはあり得ない。


 彼女が一人暮らしをしていたアパートは既に封鎖されているため、昨日は尾行を振り切って私個人の家に帰ったのだが、果たして今日はどうするべきか。


「大した用事があるわけじゃないんだけれど、長々と付き合う訳にもいかないか」


 誰にも聞こえないくらい小さく呟き、駆け出す。通常の人間ならば絶対に追いつけぬ全力疾走。間違いなく、榎園藍の姿をした私が常人という確信を与えることになるだろうが、それはそれ。その時になったら考えれば良い。


 数分後、追手の気配が無くなったのを確認して、細道の影で顔を変えて家へと向かった。

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