第1章 第3話

 左には肩にかけられたスクールバッグ、反対の右手には藍の好きな食べ物と栄養ドリンクが入ったレジ袋を提げ、藍の家へと向かっている。藍の住んでいるアパートは、私の家から徒歩10分の位置にある。両親からの仕送りで一人暮らしをしていて、同居人はいないはずだ。道路から見える藍の部屋には、明かりはついていない。何かの用事で出かけているか、或いは電気を付けずに寝ているのか。それにしては、アパートの周りに人気がない。


 アパートの階段の手すりにてをかければ、老朽化したことを示すかのようにギィと音を立てた。はて、ここの階段はこんなにも音を立てていただろうか。よく見れば無数についている傷は、先日までは無かった気がする。


 加えて、まるで人気を感じられない。夕方のこの時間であれば、他の部屋から夕飯の匂いが漂い、小学生や中学生が部屋で遊ぶ声が聞こえてくるはずだというのに。それらの気配が、まるで感じられないのは何故か。


違和感を抱きながらも、藍の部屋のドアをノックする。


「藍、寝てるの?」


 反応はない。ただあるのは果てしないまでの不安と、妙な感覚。


 部屋からは藍のいる気配もない。仕方なしに私は、藍から預かっていた部屋の鍵を取り出した。しかし、だ。


「あれ、開いてる?」


 鍵が閉まっていない。いくら古いアパートだからと、鍵をかけないほど藍は不用心ではない。何かが変だと思いながらも、覗き見るようにドアを開ける。そして飛び込んできた光景に、思わずレジ袋を落とした。


「これ、は……」


 既視感がある。部屋の中に張り巡らされているのは、銀色に輝く無数の鉄線。そこから滴る緋色の滴。床に転がる、四角く切られた肉塊らしきソレら。


 私は、これを知っている。


 私は、これを見たことがある。


 私は、この臭いを嗅いだことがある。


 フラッシュバックのように、私の脳内を映像が駆け巡る。あの日の記憶、一週間とちょっと前の、夢だと思うことにした、消えたはずの非日常。機神が起こしたのではないかという、超常の一枚絵。


 全身を、恐怖が走り抜ける。視界にある光景への生理的な恐怖じゃあない。ここら一帯にコレを起こしたモノが存在するという事への恐怖でもない。もしかしたらコレら肉塊が、藍のものなのではないかという恐怖だ。


 しかしそれと同時に、意外なほどに思考は落ち着いてた。この惨殺死体はサイズ的に、そして纏っていたであろう服からして、藍のモノではないと理解した。だから、部屋を飛び出した。


 私はアパートを離れて駆け出しながら、藍と、そしてもう一人にチャットを送る。そろそろ日が沈み始めている、夜の街へと走り出した。



 右手にスマホは持っている。落とさないように、スマホケースに紐も付けてある。


 スマホのバイブレーションに気付き、走りながら電話に出た。


『浅野さんかい? 今どこにいる?』


 電話の主は自分の名前すら言わず、真っ先に問うてきた。


「今隣駅に向かってます!」


 名前を聞かないでも、その声でわかる。成平さんだ。


『隣駅? 何故?』


 他の人に言われて初めて気付いた。何故、と。


「わからないけど……」


 息を切らせながら、私は言葉を発する。己の中にある確信を口にする。


「倒壊したってニュースになってたビル、そこにいる気がするんです!」


 伝わるはずもないだろう、そう思っていた。だが耳に届いた声は、私の思っていたものとは違ったもので。


『君が嘘を言うとは思えない、信じるよ』


 私を信じてくれた。嬉しかった、こんな異常事態でも味方でいてくれる人がいることが。この時ばかりは、成平さんが変わった人である事に感謝した。


『だが万が一もある。私は車で街の中を走ってみるよ。何かあったらまた連絡してくれ』


 こちらの返答も聞かず、成平さんは電話を切ってしまった。


 私はスマホを握りしめたまま走り続けた。




 こんなにも全力で走ったのは、十七年の人生で初めてかも知れない。時刻は既に黄昏時、そろそろあたりも暗くなってきている。


 私が足を止めたのは、進入禁止のテープが張られている、先日倒壊した建築中のビルの前だ。


「……ッ⁉」


 妙な感覚があった。藍が絶対ここにいる気がすると、そんなわけのわからない思いを、私は信じていた。


 臆することなく、進入禁止のテープをくぐる。未だ処理されず残っている瓦礫がれきと鉄骨で、人がまともに歩けるような足場ではない。ゴチャゴチャとした倒壊跡を可能な限りの速度で進むが、瓦礫と鉄骨が広がるだけで何も見つからない。加えて、日がもう沈みかけていて見えにくい。


「私の直感なんか、当てにならなかったか……」


諦めかけたその瞬間、足の裏に力が入らなくなった。驚いて下に目を向ければ、私が踏んだ足場が崩れて落ちていく。このままでは身体を打ち付け、瓦礫に埋もれて碌でもない事になる。そんな未来を予想した瞬間に、白銀が煌めいた。


てっせ———」


その正体、鉄線と口にする前に、私は地の底へと落ちていった。


◇ ◆ ◇


 彼女が駅の方へと向かっていると聞いた時、何故と思った。「妙な感覚がある」と彼女から送られてきた文字は語るが、それは恐らく彼女以外には理解できないものだろう。私でさえ疑うのだから、間違いない。


 彼女から送られてきた言葉に対して、私は半信半疑だ。しかし彼女自身は、自分の言葉に確信を持っている。ならば信じてみても良い。あの超常的なまでに美しいエメラルドの瞳を、私は信じてみようと思った。


 駅までの道をくまなく探してはいるが、彼女の友人は見つからない。一度だけ見たことがあるから顔はわかるし、この私が見逃すはずはないから本当にいないんだろう。


 先日凍りつくような笑顔で、コンビニに寄った私に対して「浅野神樂に変なことをしないでくださいね」と詰め寄ってきたあの娘。名前は確か、藍といったはずだ。

自動車を走らせていると、助手席に置いてあるスマホが鳴った。一度自動車を止めて内容を見れば、浅野さんからのチャットが届いていた。


「隣駅の倒壊したビルに着いた、か」


 何故そこへ、という疑問が浮かんだが、次の瞬間には握り潰す。恐らく今のまま探していても彼女の友人は見つからないだろう。私はそう割り切って、彼女がいるらしい場所へと向かった。


◇ ◆ ◇


 地上から数メートル、それも瓦礫と共に落ちたというのに、体には多少のかすり傷しかない。しかし、立ち上がろうと瓦礫に手を付こうとして、それが目に入った。


「これ……」


まだ記憶に新しい、蜘蛛の糸のように張り巡らされた鉄線。お尻の下と天井に張られたソレが、私の体が瓦礫によって傷つくのを防いでくれていた。


「何で……?」


 私に恐怖の感情を植え付けた鉄線が、何故私を守ろうとするのかわからない。だが、そんなことを考えている暇はない。私は目的を持って、この倒壊したビルへと来たのだから。


「そうだ、藍……」


 絶対にここにいる。その確信はまだ消えていない。


 倒れないようにゆっくりと立ち上がり、瓦礫の山から下りようとして。


「神樂、大丈夫だった!?」


 月明かりに照らされていない暗闇の中から、探していた親友の声がした。


◇ ◆ ◇


 神樂が心配で、思わず声をあげてしまった。本当なら、ずっと無言で通そうと思っていたのに。月明かりの届かない地下の隅であれば、気付かれないだろうからと。


「藍こそ大丈夫!? 家に行ったら何か凄いことになってて……」


 瓦礫を下りてこちらへ向かってくる神樂に、私は思わず叫んでしまった。


「待って!!」


 こちらに来れば見られてしまう。こちらに来れば知られてしまう。だから待って、そこにいてと。


「……藍、どうかしたの?」


 こちらを心配する声音で問いかけてくる神樂を、私は直視できなかった。


「……ねぇ神樂、一つ訊いても良い?」


 だから表情ではなく、声で判断しようと思って、


「神樂は、私のことをどう思ってる……?」


そんな曖昧な質問をした。


「親友! 大切な親友だよ!?」


 嘘なんか言っていない、それはよくわかった。それがとても嬉しかった。だがそれは、私が神樂に抱いている感情とは違うもので、


「神樂、私は……。私は、違うの……」


想いを吐き出さずには、もういられなくて、


「……ッ‼」


 息をのむ音が聞こえてくる。驚愕とも取れるその反応に対して、震える声で、叫ぶように放っていた。


「私は、神樂が好き……! 私は神樂が大好きなの! 友人としての好きじゃない、恋人になりたい、比喩じゃなくて永遠にそばにいたい、二度と離れたくない‼ そういう意味で好きなの‼」


 抑えきれない。だって、私に残った最も強い感情はコレなのだから。


「ううん、それでもダメ……。死ぬ時まで片時も離れない、最期まで生涯を共にするぐらいじゃないと嫌だ……。何時いつ如何いかなる時だって、一つじゃないと嫌なの……‼」


 泣きたかった。だけどもう、泣くことはできない。


「でも、でもね、もう無理だよ。だって、私はもう、神樂に好いてもらえるような人じゃない……」


 思い切って神樂に視線を向ければ、呆気にとられたような表情で固まっている。当然だろう、神樂の立場なら私だってそうなるだろうから。


「でも、神樂にきらわれるのはいやだけど……、神樂と離れるのはもっと嫌なの……!!」


 だから私は、


「ごめんね」


 彼女を喰らう。

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