第77話 母になれなかった女たち

その日もアリシアは悪い夢を見た。未だ忘れられない過去の夢。


 目覚めた時には汗だくになっていて、涙を流し、寒さで体が震えていた。北風が鋭い音を立てて入ってくる。風に体の熱が奪われて、奥歯がかちかちと音を立てる。


 体をまさぐられる感触、吐き気を催す程の腹部の痛み。命を体の中から出してしまった時の喪失感。いつも聞こえてくる、赤ちゃんの泣き声……。夢から覚めても感覚が抜けず、昨日食べたものが無くなるまで吐いた。


 アリシアがそんな夢を見たのは、昨晩祭司から知らせが届いたからかもしれない。


「街を出てすぐの所に求道所があるのは知っているね。グリフの時、そこの方々に聖歌を披露していただこう、という話が進んでいるのだよ。そろそろここも活気づけていきたいと常々思ってはいたし、向こうも活動の場を広げたいと考えていたみたいでね」


「可愛い聖女は来るんですか?」


 一緒に聞いていたアシュリーが弾んだ調子で尋ねる。


「聖女は来るだろうね」


「おお、良いね。楽しみだなあ」


「人は多い方がなんかやっている感出るしな。交流にもなって良いんじゃねえか」


 ビルも乗り気であるようだ。ライリーも一緒に頷く。


「皆が良いなら、私も構わないよ」


 アリシアもそう発言したが、顔は曇っていた。


 他の人が部屋を出て行き、祭司と二人きりになった。


「本当に大丈夫だったのかい? 顔色悪いようだが」


「気にしないでくれ」


「君がいた所とは別だから知り合いに会うようなことはないだろう。それに、今はかなり規制が入っていて、そういうことは行われていないそうだ。安心してくれたまえ」


「そう。……変わるもんだね」


「無理に出なくても構わんよ。毎回は来ないからね。出られる時に出てくれればそれで」


 祭司がアリシアを気遣ってくれていることも、小さな礼拝所を存続させるためには近隣の礼拝所や求道所との関係を深める必要がある。その為に尽力していることも分かっていた。


 実際の所は分からない。ただ当時は全てを失った気でいた。懺悔しなければという気持ちだけを抱えたまま、当てもなく求道所を逃げ出してきた彼女を匿ったのは、他でもない祭司だ。これ以上の我が儘は言えなかった。


「ありがとう。お休み」


「お休み。体を温めて寝るんだよ」


 暖炉の火が消えて、辺りが暗くなると、一気に食堂が冷えてくる。


 ずっと、彼に恩返しをしたいと思ってきた。できる限りのことはしてきたつもりだった。しかし、心と体がついていかない時も確かにあったのだ。


 外には雪が降り積もっていた。聖ウァレンヌの日が近づいている。


   *** 


 全てが雪に包まれ、殺風景な町並みに一日だけ春が訪れる。花の飾りで彩られた礼拝堂を見てアリシアはそう感じていた。


 白い雪を踏みしめながら夜の礼拝所を歩く。今日は寝覚めが悪いのをずっと引きずって思うように準備ができなかった。明日は祭礼本番。早めに床に入って、ゆっくり体を休めよう。


 目線を上げると、ライリーの部屋に繋がる扉の前に、人の影があった。できるだけ急いで部屋に近づくと、赤い髪をした女が花束を扉の前に置いていた。ライリーの母親だった。


 彼女の姿が、部屋のある建物が、夜空の星がぐにゃりと歪んでぐるぐる回る。


――ん。うわあああん、うわああああああん。うわあああん、うわああああああん。うわあああん、うわああああああん。


 ずっと赤ちゃんの声が鳴り響く。どれだけ強く耳を塞いでも、泣き声は彼女を襲い続ける。ここに赤ちゃんはいない、ライリーもフランも聞こえないと言っていた。

何故か。それはアリシア自身の心から出た声だから。終ぞ聞くことのなかった我が子の声だから。


(うるさい、ウルサイウルサイ。でも、なんて愛しい声なんだろう……)


 初めての感情が沸き上がる。ずっと押し込めていた何かが噴き出していく。アリシアはようやく理解した。自分の体と心はもう母親になる支度を調えてしまっていたのだと、この数年間ずっと子どもを求め続けていたのだと。


 アリシアが目を開く。彼女の顔をライリーの母親がのぞき込む。その顔は炎で赤く照らされていた。


 雪の上に倒れた後、女が彼女を引きずって食堂まで連れていき、雪で濡れた服を着替え、暖炉の側に座らせた。女はずっとアリシアが目を覚ますまで見守っていたのである。


 先程までいた祭司は着替えに行き、ビルは夜の番に戻っている。何も知らない少年二人は既に眠っているだろう。今食堂には二人だけだった。


「気がつきました?」


 女が話しかける。


「ライリー?」


 アリシアの口から、か細い声が漏れる。まだ寝ぼけているのか、視点が定まっていない。女はかぶりを振った。


「そっか、そうだった……ねえ、きみは、ライリーを迎えに来たんじゃなかったの? どうして、あの日、連れて行かなかったの?」


 口をついて出たのは、初めて会った時から抱き続けていた小さな疑問。アリシアは、自分が夢を見ているとでも思っているのか、たがが外れてしまっていた。


「分かってる。私は母親じゃない。師匠になるんだって、あの子だけじゃ無い、もう一人いるんだ。それで良いんだって思ってたはずなのに……」


 勢いのままにアリシアは呟く。アリシアはただ思いの丈をぶつけているだけだった。ライリーの母親は何がなんだか分からなかった。だが、質問には答えようと思ったのだろう、女は暫く逡巡していたが、ぽつぽつと話し始めた。


「あの時は自分が生きていくのに必死で、育てるのは無理だって、思って。でもあの子のことが忘れられなくてブラッドリーに丁度戻ってきたから、もしかしたら生きてるかもしれないって探し回ったんだ。そしたら礼拝所の中で、あんたと楽しそうにお話ししてるライリーを見つけたんだ。

 その時ね、ここなら毎日ご飯が食べられるし、髪の色や言葉や、格好で嫌なこと言われたり、物を投げられたりすることもないんだろうなって。きっとここにいた方が幸せなんだろうなって、思って、そしたらあの子に会えなくなっちゃった。多分、それで良かったんだと思う。そうじゃなきゃ、あたしどうして良いか分かんないよ」


 話しているうちに感極まってさめざめと泣き始める女。


「あたしだってママじゃなかった。ママ失格だった。でもね、でもね、あの子はあたしがお腹を痛めて産んだんだよ。ライリーって名前はあたしがつけたんだよ」


「……知ってる。君たちは本当にそっくりだ」


「そう?」


 恥ずかしくなってきた女は慌てて涙を拭い、長い髪をかきむしる。アリシアから笑みがこぼれる。


「それ、癖になってるでしょ。あの子と同じ。血は争えないね」


 女は真っ赤になった顔を手で覆う。祭司が戻ってくる足音が聞こえてきた。


 祭司が中に入ってくる。女は今晩礼拝所に泊まり、祭礼に訪れる人々に混じって帰ることとなった。アリシアは夜番に出ていたビルに見守られながら食堂で一晩を過ごした。


   ***


 その後、程なくしてアリシアは別の礼拝所へ移動することとなった。祭司の知り合いが祓魔師を探しているというのが表向きの理由だったが、この礼拝所で務めつづけるのは難しいという判断だったのだろう。


 アリシアはあっさりそれを受け入れた。移動先の祭司も男性だということは気がかりだったが、それはここにいても同じことだった。


 ライリーやアシュリーのことはさほど心配してなかった。教えるべきことは伝えたつもりだった上に、内心今は距離をとった方が良いだろうと思ったのだ。


 そうして、惜しまれながらも彼女はプレラーリ・エスタ・ブラッドリーを旅立ったのである。


 それから数年たったある日、ベンから一通の手紙が届いた。お祓いのことで子ども達が相談に来るという内容だった。そこには新しく入った侍祭の子も来る予定だと書かれていた。


 新しい侍祭の子と上手くやっているだろうか。期待と不安を抱えながら彼らを出迎える支度を調えた。



 当日、馬車の音が聞こえてきたので玄関先まで出てみると、三人の青年達がはしゃぎながら馬車を降りていた。以前会いに来た時より更に背が伸びているように感じられた。


「ししょー」


 アリシアを見つけたライリーが大声で呼びかけながら、彼女の懐に向かって駆けだしていく。女性は勢いよく彼を受け止め、強く抱きしめた。


「ちょっ、また大きくなりやがって。腰痛めるだろ、こっちはもう年なんだよ」


 見上げながら文句を言う。いつの間にか、アリシアの背を越すようになっていた。


「元気だった?」


「元気元気」


 お互い顔をほころばせながら話している所に、アシュリーがゆっくり近づく。


「アリシアさん、お久しぶりです」


「久しぶりー」


 彼女は、片方の腕でアシュリーを抱き寄せ、軽くハグをした。二人の様子を戸惑いながら眺めている少年がいた。二人より少し背が低く、髪を切りそろえていて身なりのきっちりした子だった。厚手の綺麗なマントを羽織っている。彼に向かって手を差し出す。


「君が新入りのマルク君だね。あたしはアリシア・エヴァンス。ここで祓魔師をしているんだ。よろしく」


「初めまして、マルク・ネイサン・ファルベルと申します」


 彼は手を握り返す。見えている二人を受け入れてくれた彼の優しさが伝わってくるように感じられた。人に認めて貰える経験は、二人にとって何よりの財産となるだろう。そんなことを思いながら三人を食堂まで連れていったのだった。


   ***


「師匠」


 夜、寝る前に庭をぶらぶらしていると、いつの間にか隣に立っていたライリーに話しかけられた。


「どうした? マルク君は大丈夫そうかい?」


 食堂で話をしている途中顔が真っ青になっていたので、早く休むよう伝えていた。


「あいつは寝てる。まあ、大したことねえだろ」


「分かんないよ。積もり積もってということもあるからね。私みたいに」


「今は楽になったのか?」


「ありがたいことにね。のんびり過ごさせてもらっているよ。ブラッドリーは良くも悪くも忙しないからね」


「そっか、なら良かった。あのさ、昔、一回赤ちゃんの声が聞こえるかって聞いたこ

とあったよな。それってここにいても聞こえてるのか?」


「いきなりどうしたんだ?」


「なんか、思い出して。気になってきちゃってさ。なんか、思い返すと時々師匠、苦しそうにしてたから」


 彼は恥ずかしそうに目をそらす。ぽりぽりと頭をかく癖は相変わらずだ。


「もう今は聞こえないよ。あれはなんだったんだろうね」


 そう言って肩をすくめる。実は稀に聞こえることはあったのだが、昔の様に辛いとは思わなかった。



――もうこの世にいないけれど、あの子は確かに私の一部だった。これからもこの声とともに生きていく。母親として、祓魔師として、そして、師匠として――



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 好き勝手に書き散らかしている作品ですが、いつの間にか20万字越えようとしていることに驚きです……! これまで10万字も書いたこと無かったのに。作者自身でも最初から読み返すとなると億劫になってきますね(笑)。ここまで読んで下さった方には感謝の気持ちしかありません。

 できるだけ物語としてきりの良いところまでは書き続けたいと思いますので、今後も生暖かく見守って下されば幸いです。

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