七、灰の話

 ここまで読んでくれている諸君に、ある重要、だがあまり知られていない、そんな事実を教えて差し上げようと思う。ご褒美でも無ければ読むのを投げ出しそうな諸君のためである。君らが無い尻尾をブンブン振り回している様子が目に浮かぶ。私が優しさに満ち満ちた人間であることを証明しようではないか。称えたまへよ。

 して、その重大な「事実」とは?


「人間は、死ぬ。」


 さて、満足いただけただろうか。なんだね、その顔は。「そんなこと知っている」とでも言いたそうだな。まあ、気持ちは判らぬでもない。が、私は現にその事実を正しくは知らなかった。なんだ、まだ文句があるのか?贈り物を貰ったら、まずは感謝の意を述べるのが礼儀であると習わなかったのか。なんだね。

「タバコの話はどこに行ったんだ」だって?君はせっかちが過ぎるな。まだ本題に入っていないほんのさわりでないか。ほら、まだ文字数も、、、もう十数行?なるほど、さわりにしては長い。時間は大切にすべきだ。さっさと本題に移ろう。急がねば。人間はいずれ死ぬのだから。諸君らの目が黒いうちにこれを読み終えることができることを祈ろう。

 という訳で、ここからが本題である。何故「人は死ぬ」などということを諸君にお教えしたのか。それは、私にとって「喫煙」と「祖父の死」という出来事には切っても切れない関わりがあるためである。

 2019年は5月10日、母方の祖父がその生涯に幕を閉じた。前々から身体の衰えを訴えており、歩くことにも苦労するような人であったから、そう意外なことでもなかった。性格は快活、優しく穏やかな面もあり、孫であった我々は数多くの愛情と恩恵を受けてきた。「いい人」を絵に描いたような、自慢の祖父であった。して、彼はその80年余りの生涯を終えたのである。彼の妻はというと、一足先に黄泉の国へと旅立っていた。私の母は、ついに両親を失った。そして、私にとって身近な人の死というものは、これが大人になって初めてのものであった。

 詳細は省くが、結論として私は涙を流さなかった。「葬儀中」は。両親を失った母や叔母ほどの悲しみはなかったか、単に実感が湧かなかったのか、孫の中の長兄であるが故の責任感からか、またはその全てであったかもしれない。ともかく、私は泣かなかった。涙が出たのは、通夜式を終え、葬式を終え、焼骨を終え、母たちと夕餉を食べ、下宿先である金沢に帰るための夜行バスを待っている、その時であった。

 夜に一人というものは斯くも寂しいものであったか。胸が抉られるとはこういうことか。嗚咽の一つも無く、ただ眼の奥から塩水が溢れ続けた。周囲から見れば奇怪な若者に見えただろう。頬に絶え間なく線を引く滴を除けば、彼は至って平静であった(時代は平成でなく令和であったが)。人はここまで冷静に泣けるものなのか、とメタ私が感嘆したほどである。その涙に私が安心したことは言うまでもない。

 さて、ともかく私は大切な人を失い、心が弱っていた。気が病めば身体も病むことは周知の事実である。が、そこには「いっそ身体も病ませてしまおう」という一種の自棄が根を張っているように思われて仕方ない。私は、自棄として肺を犠牲にすることにした。臓器への八つ当たりである。肺というものは胸の奥にある。心は?ハートって言うじゃあないか。八つ当たりは近場に限る。

 斯くして、私は「ふかし撤廃条例」に同意し、本格的に肺に煙を入れ始めた。一日に吸う本数も増えに増えた。終わりの始まりである。

 っと、灰皿がいっぱいだ。燃え尽きた灰をその身に貯める姿は目に新しくない。さながら「煙草の骨壺」か。不謹慎であるなあ。

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