六、香りの話

 煙草に付き纏うイメージには何が挙げられるか。前項で読者諸君の勘の鈍さはよくわかった。今後は問い掛けなどという愚行からは足を洗おう。煙草へのイメージは色々ある。肺を汚す、大人の嗜み、ニコチン中毒、ハードボイルド等。そしてそこに「香り」というものがある。

 煙草の香りとは、非喫煙者からすれば忌み嫌う対象であることが多い。こと昨今の日本を見ればその嫌悪は相当に蔓延っている。我々喫煙者の肩身はなんとも狭いものである。他人の嗜みを忌み嫌うことの何が美徳であるか。美しいのは彼らの肺だけである。それだけで十分すぎる程に素晴らしいことは言うまでもない。

 さて、そんな煙草の香りであるが、私にとっては嫌悪の対象ではなかった。そのことはこの項以前でも話したが、忘れたならそれでいい。見返しに戻ると次はこの項の内容が頭から抜けることは知れている。やめておきたまへ。とりあえず、私は煙草の香りを嫌っていなかった。これは喫煙者になる遥か前からそうであり、今もそうである。ここには、私の父の存在が大きく関わっている。

 私の父はかねてからの喫煙者である。その堂々たる喫煙姿は幼少期から私の視界にも度々映った。そしてその香りも幼少期から私の鼻孔に染み付いている。そんな父は私が青き中学生の頃に「メキシコ」という国へと単身赴任が決まった。寂しいやらなんやらよく分からぬまま、彼は日本に我々を残し、異国へと働きに行った。そして今もメキシコに家を置いている。年に数回帰国する父であるが、それを数回経験するとわかることがある。父が帰ってくると、家や車に煙草の香りが戻って来るのだ。母が非喫煙者である我が家では、父がいない限り煙草の香りはしない。当然である。煙草の香りが無くなるときは気が付かない。が、父が帰ってくると懐かしいような「香り」も帰って来る。そんなことに気が付いた。

 香りの記憶というのは案外根強い。香水の香りで昔の恋人をふと思い出したり、花の香りがある日の情景を思い出させたりする。そういった意味で、父に会える機会が少なくなった私にとっては煙草の香りが父を思い出すきっかけの一部になっていた。私が喫煙者になったのも、そう考えると自明だったのかもしれない。

 また、この自覚があってから、いつか私を思い出す誰かにそのきっかけとして煙草の香りを残しておこうか、なんて言い訳もよく脳裏を過ぎるようになった。香りの記憶というのは案外強いのだ。私を忘れてくれるなよ、と自嘲じみた笑みを湛えて紫煙を纏う。「煙草を辞めて長生きした方がいいのでは?」だって?折角クサイ台詞に浸っていたのに、、、。「真面目クサイやつには蓋をしろ」とはよく言ったものだ。

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