第191話 二人の決断(後編)

 ある年の六の月、ディオネの広場では小さな宴会が催されていた。その中心には、真っ黒な髪と瞳を持つ一人の幼子。


「アル君、こっちおいで」


 ベルが両手を広げると、アルはにっこりと笑い小走りでその腕に抱かれに行く。女たちはその可愛らしい仕草に頬を緩め、男たちはそのしっかりとした足取りに驚いて目を丸くする。


「今日ってあの子の一歳の誕生日パーティーなんだろ?あんなにしっかり歩ける子は初めて見たよ」


「ああ、さすがアズさんとアディさんの息子ってことか?」


 町の者たちは知る由もないが、アルは神族と魔族の混血。その潜在能力の高さの片鱗は幼少期から現れていた。


「それにしても残念ねぇ、アル君をお姉さんに預けないといけないなんて……」


「……ええ……でも仕方ありません」


 アルの頭を撫でながら、ベルが大きなため息をつく。

 この誕生日パーティーが終わると、アスモデウスは仕事のために村を離れ、アルはアフロディーテの姉に引き取られるということになっている。実際、アフロディーテは産後から体調を崩すことが多く、それを利用したのだった。


「協力に感謝する、クロノス」


 アスモデウスがパーティーの中心から少し離れたところに佇む女に声をかける。オレンジ髪に長身の女の名はクロノス。血縁があるわけではないが、アフロディーテが姉と慕う、時を司る女神。アルをユウキのいた時代の異世界へと送るためには、空間を自在に操る闇魔法のエキスパートであるアスモデウスと、この時の女神の権能が必要であった。

 そんなクロノスが神族の証たるその金色の瞳でアスモデウスをじろりと睨みつける。


「お前の感謝など要らぬ…………アディから全て話は聞いた。お前が魔王になろうと、あの子が特異な存在であることを変えることは容易ではないぞ」


「困難であることを諦める理由にはせぬ。その程度やってのける覚悟がなければ、アディとの子など望んだりしておらぬ」


 相変わらず無表情のアスモデウスだが、その言葉の端々には隠しきれぬ激情が見え隠れする。


「ねぇ、二人ともどうしたの?せっかくみんながアルをお祝いしてくれてるのに」


 駆け寄ってくる妹の姿に、それまで終始しかめっ面だったクロノスの頬が緩む。


「少し話をな……アディ、伝えておかねばならぬことがある。神界があの子の存在に気付いた」


 アフロディーテとアスモデウスの表情に緊張が走る。二人が表舞台から姿を消し、静かに暮らしていたのはそれを恐れてのことであった。


「だが心配は要らぬ、ひとまずはこのまま静観するという運びとなった」


「ホント?でもどうして?」


「知っているであろう、過去の魔神狩りによってもたらされた被害の甚大さを。我らにはあれが正しい選択だったのか、未だにその答えを出せておらん。単に藪をつついて蛇を出してしまっただけではないのか、とな。しかしもしも……」


「みなまで言うな。我らがそうはさせぬ」


「うん」


 静かな口調でクロノスの言葉を遮る二人。だが力の限り握りこんだアスモデウスの拳からは血が滴り落ち、アフロディーテの瞳には並々ならぬ決意が燃えている。

 クロノスはそんな二人に、諭すような口調で語りかける。


「アディ、親が子に対して責任を負うのは当然のこと。それは正しい正しくないを論ずるまでもなく、な。だが、あの子の人生はあの子のもの、それもまた当然のことなのだ」


「……?どういう……」


「今はまだ分からなくて良い。だが忘れてはならぬ、良いな?」


「……うん」


「肝に銘じておこう」


「お前には言っておらぬ、勝手に話に入ってくるな」


 二人の間に険悪な空気が流れだすが、それを断ち切るようにアルがアフロディーテの足元に駆けてくる。

 そしてアフロディーテはアルを抱き上げると、アスモデウスとクロノスにふわりとした微笑みを見せる。


「あなた、姉さん、アルをお願いね」


「ああ」「心配するな」


「アル、元気でね……きっと、ううん、絶対にまた会えるから……」


 語りつくせぬ言葉がアフロディーテの胸に去来し、アルと額を合わせる、百の言葉ですら伝えきれぬ愛情を伝えるために。周囲の者たちは二人の別れを邪魔せぬよう、じっとその様子を眺めている。特にアルを可愛がっていたベルや他の何人かは、涙ぐみながら。

 そしてアルもまた、母との別離を感じ取っているのか、五分、十分と時が過ぎようとも、じっとその顔を見つめたまま身じろぎ一つすることはなかった。


「アディ」


 アフロディーテはこくりと頷き、アルの頬にそっとキスをする。


「……アル、大好きよ。あなたの行く先が、笑顔で満ちたものであるように、私はいつもあなたを想って祈っているわ」


 そう言って目に涙を浮かべるアフロディーテの唇に、アルはちゅっと唇を寄せ、頭をぽんぽんと叩いて母の顔を覗き込む。


「ふふ、アルのファーストキスは私にくれるのね?将来、あなたのお嫁さんに自慢しちゃおうかしら?」


 笑みと共にこらえていた涙がこぼれ出す。


「ねぇ、アル。あなたがいつでも帰ってこられるように、お母さんがこの町を守るから。あなたと歩いた道も、あなたと見た風景も、そしてあなたを愛してくれた人達も、全部全部、私が守るから……あなたがここにいたっていう証は、何一つだって失わせないから」


「アディちゃん……」


「アルはそのままの、優しいままのあなたでいてね。それでたくさんご飯を食べて、いっぱい寝て、大きくなって……そうしたらまた、一緒にこの町を散歩しようね」


 アフロディーテが『その時はお母さんをエスコートしてね』と言って笑うと、アルはそれに応えるかのように、もう一度その唇にキスをしてにっこりと笑うのだった。

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