第183話 愛と美と豊穣の女神

「それではアルさん、セアラさん、こちらへ」


 エリオットに促されると、アルとセアラは祭壇に祀られたアフロディーテを顕現させるべく、膝をつき両手を胸の前で結んで女神像へと祈りを捧げ始める。

 礼拝堂を包む静謐な空気の中、やがて二人の体からキラキラと輝く光の魔力がゆらゆらと立ち上り、女神像へと吸い込まれていく。

 冷たく無機質だった灰色の肌が、徐々に純白の雪のような色を持ち始めると、重力に逆らい、不自然な角度で固まったままの金髪がサラリと揺れ、下向き加減のその整った顔にかかる。

 参列者たちはその様子を静かに見守る。その侵しがたい神聖な空気は、声を出すことはおろか、僅かな身じろぎも、息をすることすらもはばかられるものであった。


「感謝するわ、二人とも」


 晴れて自由の身となったアフロディーテは、祭壇を離れて優雅に宙を舞い、すべての視線を独り占めにしてアルたちの目の前に音もなく降り立つ。そしてゆっくりと瞼が開かれ、神族の証である金色の瞳があらわになった時、魔王アスモデウスの威圧的なものとは全く違う類の、柔らかで温かい、それでいて圧倒的な存在感が場を支配していた。


「アルさん……やっぱり、お義母様は本物の女神様です……」


 祈りの姿勢のままセアラがつぶやくが、アルからの返事は無い。


『愛と美と豊穣の女神』


 アルたちのように、これまでアフロディーテと魔導人形マギドールを介して会話をしていた者であっても、こうして対峙すれば否が応でも理解する。本物だけが纏う、その名に恥じぬ別格の存在感を。


「ありがと、セアラちゃんもとっても綺麗よ」


「あ、ありがとうございます……」


 いつもと同じ軽い口調。しかしその微笑みと声色が醸し出す得も言われぬ色気に、女性のセアラですら思わず頬が赤くなる。


「母さん、前にも言ったし分かってると思うけど、くれぐれも町の人たちが抱いている女神様のイメージを壊さないよう……」


 二人のやり取りを見ていたアルから少しの不満を含んだ声が上がるが、そんな小言など久々の生身にテンションの上がったアフロディーテにはどこ吹く風。


「あらあら、せっかくの結婚式なのにそんな顔しちゃダメでしょ?」


「近いって」


 わざと息がかかるほどに近づいて囁くアフロディーテ。思わず頬を紅潮させて飛び退く息子の反応を楽しむと、参列席に向かって小さく手を振り、アスモデウスがそれに軽く手を挙げて応える。


「ああ、もう……神父様、お願いしま……」


 先ほどから振り回されっぱなしのアルが助けを求め、視線を左側に立つ男に移すとぎょっとする。その視線の先には膝をつき、胸の前で両手を結んだまま滂沱のごとく涙を流すエリオット。


「っ、す、すみません……わ、私としたことが自らの立場を忘れ……」


 アルに声をかけられ、エリオットはようやく我に返ってハンカチでいそいそと涙をぬぐう。


「……いえ、エリオットさんの立場だからこそ、でしょう。ゆっくりで大丈夫ですから」


 エリオット、そしてやはりシルの隣で感激の涙を流しているセレナを見て、アルは改めて理解していた。この町に暮らすものにとって、アフロディーテは正しく天上の存在なのだと。特に信心深い二人にとってはなおさらであり、その心を包む感情は自分には理解できないものなのだろうと。


 今にも堰を切ってあふれ出しそうな感情をどうにか抑え込もうと、エリオットは大きく深呼吸を繰り返す。


「ついさっき魔導人形マギドールで会ったばかりなのに大袈裟ねぇ……そう思わない?セアラちゃん」


「あ……お、思い……ええっと……」


 悪戯っぽい笑みを浮かべながらセアラに尋ねるアフロディーテ。

 自分が感じた衝撃を思えば、セアラにはエリオットの心情は痛いほど理解できる。だからと言ってアフロディーテの言葉を真っ向否定してもよいものかと、返答に窮するセアラ。


「母さん」


「はぁい、黙っておきますよぉ」


 息子アルからの釘を刺すような視線にアフロディーテは肩をすくめると、先程まで祀られていた祭壇にふわりと戻り、よそ行きの顔を作って見せる。


「す、すみません、アルさん」


「いや、母さんがすまない」


「……もしかしてお義母様は、私たちの緊張をほぐしてくださったんでしょうか?」


「……さぁ、どうだろうな」



「皆様、大変長らくお待たせしてしまい、申し訳ありません。それではこれより新婦アル、新婦セアラ両名の結婚式を始めさせていただきます」


 ようやく準備の整ったエリオットが、厳かに、それでも良く通る声で開式を宣言すると、そこからはつつがなく結婚式が進んでいく。ただ唯一、エリオットが結婚するふたりに向けた『女神の教え』なるものを朗読をしている時、アフロディーテが『一体、誰がそんなことを言ったのだろう?』と、眉をひそめたことをアルは見逃さなかった。


「では続いて結婚の誓約を……女神様、お願い致します」


 アフロディーテがこくりと頷くと、二人に向かって妖艶な笑みを向ける。


「新郎アル、新婦セアラ、あなたたちは以前すでに私の前で結婚の誓約を交わし、私はそれを承認した。今日はせっかくの機会だから、あなたたちがこれからどう生きていくのか、その胸の中にある想いを聞かせてほしいわね?」


「またそんな無茶振りを……」


 アルがため息をついていると、セアラがアフロディーテに向かって一歩進み出る。


「では私からいいでしょうか?」


「セアラ?」


「ええ、もちろん」


 セアラはアフロディーテに軽く一礼して踵を返し、参列者たちに向かって深く一礼する。


「急なことでしたのでまとまりが無いかもしれませんが、ご容赦くださいませ。およそ一年前、ここで夫と結婚の誓いを交わした時、天にも昇る気持ちでした。世界一の幸せ者だと、この人が隣にいてくれるのならば他には何もいらないと、そう思ったことを、まるで昨日の事のように覚えています」


 胸に手を当て、幸せそうに微笑むセアラ。


「それから色んなことがありました。中でも一番嬉しかったことをあげるとすれば……やはり、かわいい娘が出来たことでしょうか」


 穏やかに語るセアラの視線の先には、不意をつかれてはにかむシル。


「家族三人で賑やかに食卓を囲んだり、一日の終わりにベッドで川の字になってお話したり、母に会うための旅行では一緒に温泉につかったり……」


 数え切れないほどの家族が紡いできた思い出を、まるで宝物を自慢するかのように披露していくセアラ。

 だが、やがてアルに関する噂が世界中に流れ始め、ソルエールへと移ることになったところで目を伏せ言葉に詰まると、アルはセアラの手を握ってそのあとを継ぐ。


「ですが、皆様もすでにご存知の通り、良いことばかりが続いたわけではありません。突然の逆境に私は進むべき道を見失い、感情があふれて妻に弱音を吐いた夜もありました」


 その言葉に、アルとつないだセアラの手にきゅっと力が入る。


「そんな時、私の支えになってくれたのは家族だけではありませんでした。周りの方々が、ただ私だからという理由で信じ、味方でいてくださいました。それがどれほど心強く、救われた気持ちになったことか……改めて、人の温かさを身に染みて知ることが出来ました」


 家族席である一番前の列に座るメリッサ、レイチェル、モーガンに視線を送り、さらにこの場にいないカペラの住人たちの顔を思い浮かべるアルとセアラ。


「これから生きていく中で、何を返すことが出来るのか。私たちはそれを考え、一つの答えを出しました」


 そして二人はヴェール越しに目を合わせ、互いに頷き握った手に力を込める。


「私たちは今後、領地への移住希望者を受け入れるつもりです」




※あとがき


相変わらず更新が遅くてすみません。

本来一話の予定のところを長くなったために二話に分けましたので、次回はもう少し更新が早くなると思います。

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