第103話 世界の命運は勇者の手の中に

「……おかえりなさい、私の英雄(アルさん)」


 アルの頬に触れるセアラの双眸からは、堰を切ったように涙が止めどなく溢れ出す。

 ここに至るまで、セアラはただひたすらに耐えてきた。人前では決して涙を見せること無く、『戦場の女神』と呼ばれるほどに気丈に振る舞い続けてきた。アルとシルを信じる気持ちに嘘などあるはずもないが、それでも不安な気持ちはしばしば彼女を襲い、常に一人でそれに抗ってきた。何度も押し潰されそうになっても、再びアルが目覚めるこの瞬間を信じて、前だけを向いて進んできた。

 そんなセアラの心情はアルには痛いほどに理解出来る。今すぐ抱き締めてやりたい衝動に駆られるが、溢れる涙をそっと拭いて、一際優しい口調で語りかける。


「ああ、ただいま。心配かけてしまったな。もう少しだけ頑張れるか?」


 セアラは大きく息を吐くと、強い意志を湛えた瞳でアルを見つめ返し、その意図を汲んで力強く頷く。


「はい、障壁を張ればいいんですね?」


「頼む、俺とシルの二人でカタをつけてくる」


「はい、お願いします。シル、アルさんをよろしくね」


「うん!」


 アルと共に来るなり、手際よくルシアの治療を終えたシルが笑顔でそれに応える。


「忌々しい禁忌の子めが……よもやあの呪いを解けるものがおるとはな……?ならばその後ろのケット・シーが聖女ということか」


 アバドンが何事も無かったかのように三人の前に立ちはだかると、苦々しい表情でシルに視線を移す。


「殺すつもりでやったんだがな……どうやら俺一人ではお前は倒せないらしい。二人がかりでやらせてもらう」


「ふん、構わんよ。こちらは二人どころではないのだからな」


 アバドンの胸で怪しく明滅する賢者の石を一瞥すると、アルはティルヴィングに通していた魔力を解除する。


「確かにそのようだな。それなら遠慮無くやらせてもらおう、シル」


「うん、任せて!」


「ティルヴィング、無理をさせるが頼むぞ」


 アルがシルから流れ込んでくる魔力を、全てティルヴィングに流し込むと、その願いに応えるように刀身が暖かな光を放つ。


「くくっ……よもや闇の魔剣を聖剣に変えるとはな!だが手間が省けて却って好都合というもの!お前たちさえいなくなれば、我が覇道に障害は無くなる。この場で二人まとめて葬り去ってくれるわ!」


 セアラが詠唱を終え、『完全障壁(イージス)』を展開すると、直径二十メートルほどの半球の中に、アルとシル、そしてアバドンだけが残される。


 アバドンは展開された障壁などまるで意に介すことなく、収納空間から魔剣ダインスレイブを取り出す。それは日本刀のような美しさすら感じさせるティルヴィングとは大きく異なり、長い刀身に左右三対の枝刃を持つ禍々しい形状。鋭く大きな枝刃は五十センチほどの長さを持ち、それ一本だけでも容易に相手を両断し、命を刈り取ることが出来るものであった。


「そんなことを……させるわけ無いだろうが!!シル、怖いかもしれないが、しっかり捕まっていろ!」


「大丈夫だよ!私はパパを信じてるから!」


 シルはアルの邪魔にならないように、自身に軽量化、身体強化をかけておぶさる。その上アルに魔力供給を行っているため、三つの魔法を同時に発動させていることになる。


「よし!行くぞ!」


 アルはシルを背負っているという状況ゆえ、短期決着を狙って身体強化魔法を三重に掛ける。骨が軋み、筋繊維が切れるような痛みを感じるものの、それを黙殺して駆け出す。


 ガギィィーーーン!!


 超一流の使い手同士がぶつかるや否や、二人を中心に衝撃が走り、甲高い金属音がソルエール中に響き渡る。広場を形作っていた石畳はその衝撃によって粉々に砕け、四方八方に飛び散るが、セアラの障壁がそれらを全て受け止める。


「悔しいが、まだまだあいつには敵わねえな……」


 剣鬼フラウロスとの激戦の後にもかかわらず、無理を押してドラゴンとも戦い倒れ込んでいたマイルズが、どうにか体を起こしてアルとアバドンの斬り合いを口惜しそうに眺めて呟く。両者ともに当代の剣聖をしても、見惚れるほどの技量。本気になった二人の前では、なす術もないであろうことを悟っていた。


「アルが負ければ世界はアイツのもの……か」


 その呟きに答えるようにブリジットが独り言つ。


「うん……私たちに出来るのはアルの勝利を願うだけだね」


 傷付いた者たちに回復を施しながら、クラリスがアルの勝利を祈る。


「結局アルに全てを押し付ける形になるなんてね……本当に申し訳が立たないな」


 三人の後ろから声をかけるのはエドガー。いつの間にか魔王アスモデウス他、世界会議に出席していた者たち全てが、二人の戦いに釘付けになっている。


「ほう、あの時の三人か……」


 アスモデウスは三人を一瞥すると、直ぐに視線をアルとアバドンに戻す。


「くっ、魔王……」


「案ずるな、今の我らは敵ではない。こちらに危険が及ぶのであれば守ってやる」


「し、しかし陛下!この様なところに出ては!」


 マイルズが堪らず苦言を呈するが、エドガーは頭を振ってそれを否定する。


「これでアルが敗北するのであれば、もはや望みは無い。私たちに出来ることはアルの勝利を見守ることだけ。ここにいる誰もがそれを理解しているし、私たちにはこの戦いを見届ける義務がある」


 エドガーが他国の者たちを見渡すと、アルを味方として扱うことに懐疑的だった者たちまで、その考えに同調して頷きアルの闘いを静かに見守る。



「ふはははははっ!!颯爽と登場したわりには、ずいぶんと苦労しているじゃないか?逃げてばかりでは勝てんぞ?」


「ちいっ!」


 アルが顔を顰めながら、桁外れの膂力に任せて振るわれるアバドンの斬撃を大きくかわす。長い刀身に大きな枝刃を持つダインスレイブの形状ゆえ、その斬撃を躱すためには、いちいち大きく動かなくてはならず、それ故に反撃の糸口がなかなか掴めずにいた。

 現状を打破するため、紙一重で躱そうとするアルの体には徐々に切り傷が増えていくが、それでもシルにはかすり傷一つ負わさずに立ち回る。


「大人しくしてろ!『影縫』」


 アルが動きを少しでも止めようと、闇の拘束魔法を発動させる。


「はっ、この程度で!」


 生半可な力では決して破られることの無いはずの固い拘束。アバドンは強引にそれを引きちぎると、勢いのままアルに突進しながらダインスレイブを振り下ろす。


「うおぉぉっ!」


 体重と力の差で、受け止めるのは不利と瞬時に悟ったアルは、渾身の力を両腕に込めてそれを右に打ち払う。弾かれたアバドンが僅かに体勢を前のめりに崩すと、アルが右手一本にティルヴィングを持ち替え、片手平突きを繰り出し、狙い通りの右脇腹に刺す。


「ふん、その程度か?どうやら聖剣を持とうが、魔神の力を使えぬお前など取るに足らんようだな」


 アルの渾身の突きにも、眉ひとつ動かさずに嘲笑を浮かべるアバドン。突き刺したはずのティルヴィングは、分厚い筋肉で止められており、僅かに血が流れ出す程度。アルの膂力と、高い殺傷能力を持つ技をもってしても、満足なダメージを通せないという絶望的な状況。

 アルの表情が次第に手詰まりの様相を呈し始めると、それを感じとったアバドンは歪んだ笑みを浮かべ、周りの者たちは不安を振り払うかのように、口々にアルを勇気づけようと声を掛ける。


「頑張れ!!」


「頼む!勝ってくれ!」


「負けるな!!」


 もはやアルこそが、地上に住まうものたちに残された唯一の希望。全方位から願いを乗せた声援を受けたアルが、大きく後ろに飛んで距離を取り、肺の中の空気を全て吐き切って、無理やりに呼吸を整える。

 既に戦闘が開始してから十分が経とうとしていたが、未だにアバドンの体についた傷は先程の突きによるものだけ。心技体の体の部分で、他の二つを以てしても、覆しがたい程の大きな差が出来てしまっていた。


「パパ、聞いて。―――――――」


「っ!?出来るのか?」


「うん、今の私なら出来る!だって私はパパとママの娘だよ!」


「……ああ、そうだな!」


 アルは再びアバドンに向き直ると、ティルヴィングを収納空間から取り出した鞘に納めて、居合い抜きの構えを見せる。


「この期に及んで剣を納めるとは、何の真似だ?」


「この一撃でお前を両断する。これで決められなければ俺の敗けだ」


「…………あながち冗談、と言うわけでもなさそうだな。いいだろう、やってみるが良い。そろそろ相手をするのも面倒になってきたところだ」


 アルの構えから、自身の右から来る横薙ぎの斬擊だと判断したアバドンは、それを受け止めようと構えを取る。

 瞬時に辺りの空気が張り詰め、呼吸すらままならなくなる。二人の放つ雰囲気の変化は、障壁越しであってもはっきりと感じられるものであり、いつの間にか障壁を囲む者たちからの声援は止んでいた。


「ねえマイルズ、あれって……」


「……ああ、あの時のやつだな。アルが唯一使って見せた技だ」


 ブリジットの小声の問いに、マイルズが神妙な顔を見せる。アルが魔王アスモデウスを討ち取る時に見せたそれは、未だに剣聖の脳裏に焼き付いて離れない。それは心の底からアルに嫉妬した、苦い記憶を想起させるもの。


「ふむ、確かに強力な技ではあるが……それでも今のやつに通じるとは思えん……何を考えておるのだ?」


「まあよく分からないけど、アルならなんとかするんじゃない?」


 実際にそれを受けたアスモデウスが率直な感想を口にすると、一同に緊張が走るが、クラリスだけはポジティブな言葉を漏らす。


「その通りですよ。アル君は間違いなく勇者です。彼ならば必ず勝ってくれます」


 まるで自分の息子を誇るかのように、ブレットが拳を握って言い切ると、エドガーやマイルズたちも黙って首肯する。そしてそこからは誰も声を発することなく、戦いの決着を固唾を飲んで静かに見守る。


 目を閉じて深呼吸を行い、深く深く意識の底へと沈み込み、集中力を研ぎ澄ませるアル。身体強化魔法を解き、完全に体を脱力させ、心を完全にフラットな状態へと持っていく。

 眼前に立ちはだかる絶対的な強者に対する恐怖、愛するものを傷つけられたという怒り、そして今から放つ一撃に、文字通り世界の命運が懸かっているという重圧と高揚感。その全ての思いを消すのではなく、心の片隅に追いやる。強い思いは力になるが、強すぎる思いは時として枷になる。アルはその事を経験的に知っていた。

 対するアバドンも動じない。信ずるは賢者の石を取り込み最強となった己のみ。今から放たれるであろう一撃は、紛れもなくアルの最後の切り札。それを受けきることが出来たのならば、もはや勝負は決まったと言って差し支えない。


 セアラは一言も発さずに、瞬きすら惜しんでアルを真っ直ぐに見つめる。過去に負った心の傷を乗り越え、再び勇者の重責を背負い立ち上がった愛する人。そんな彼が今度こそ世界を救う英雄へと駆け上がるその瞬間を、決して見逃さないように、誰よりも近くから見届けるために。


 そしてアルの目がゆっくりと見開かれる。僅かな感情の揺らぎも見せないその瞳で、打ち倒すべき敵を静かに見据える。全ては最高の一撃を放つために。

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