第104話 もう一度始めよう
「『身体強化(ブースト)十倍』」
アルの体に眠る魔神の力が引き出されると同時に、のたうち回りたい程の激しい痛みが全身を駆け巡る。身体強化魔法を重ね掛けすること十回。潜在能力の百パーセントの解放がもたらす激痛は、アルの強靭な肉体を持ってしても、その耐久値をはるかに凌駕する。通常であればただの自傷行為であり、この状態で動くことなど、到底出来るはずもない。
「『上級回復(ハイヒール)』」
間髪入れずにシルが回復魔法を発動させると、その痛みは完全に霧散する。これでシルは
「パパ、痛いのは気にせずに思いっきりやっていいからね!」
「ああ、舌を噛まないようにな」
「うん!」
シルの元気な声援にアルが静かに答えると、ティルヴィングに手をかけて鯉口を切り、僅かな静寂が訪れる。
「さあ、いつでも来るがいい」
「……ふっ」
キィーーーーーーーーーン
アルは深い集中と比類無きセンスによって、魔神の力を見事に制御すると、放たれた一筋の閃光は音を完全に置き去りにする。そして聖剣の放つ暖かな光から僅かに遅れて、澄みきった音が波紋を拡げるように、ソルエール中へと響き渡る。
アルは音が消え行くまで残心を解かず、その後ゆっくりと納刀する。その一挙手一投足を見逃すまいと、食い入るように見ていたはずの者たちは、誰一人としてその音が、その動作が意味するところを理解できなかった。
それは『聖剣』ティルヴィングがダインスレイブを両断した音、そしてそれが意味することは即ち……『アルの勝利』であった。
やがて賢者の石ごと両断された胸部から、上下に向かって石化がゆっくりと進んでいくと、自身の命運を悟ったアバドンがアルに語りかける。
「……魔神の魂を持つ者よ、お前も分かっているはずだ。世が乱れた中にあれば、お前のような者も英雄として受け入れられる。しかし平和な世ではその存在は異物に他ならぬ。直に人々から畏れられ、孤独に苛まれるだけだ。悪いことは言わぬ、その力を以て地上の全てを手に入れろ。地上の全ての者から、畏れ敬われる存在になるのだ」
それこそが地上で生きる唯一の道と信じて止まないアバドンを見つめ、アルは身動ぎひとつせずに静かに語り始める。すると手早くアスモデウスが拡声魔法を発動させ、全ての者たちにその声を届かせる。
「お前の言う通り、俺は人の中で生きられなくなるかもしれない。それでも絶対に後悔することはない。俺はお前を倒し地上を守るという道を、誰かに言われたからではなく、自分自身で選び取った。それによって引き起こされる結果ならば全てを受け入れる。俺のことを知った世界中の人から畏怖され、迫害されようが構わない。俺の存在自体が邪魔になるのならばこの地上から去ればいい。勇者の称号も、お前を討ち取ったという栄誉も必要ない」
『地上を去る』アルがこの戦いの先に見据えていた未来に、その場の全ての者が言葉を失い、セアラとシルは唇を噛んで、こぼれそうな涙をぐっと堪える。
「……私には分からぬ。何故人でもないお前が、そこまでして地上の者たちを守ろうとするのだ?」
「『人は温かい』そう教えてくれた人がいる。その人と会うまでの俺は、全てを拒絶して、ずっと独りで生きていけると思っていた。誰かを信頼し、裏切られて傷付くくらいならそれでいいと、その方が賢い生き方だと自分に言い聞かせていた」
「……うむ、他を信じ、頼ることなど弱者のすること。強者には相応しくない振る舞いだ」
アバドンの同意にアルは頭を振って続ける。
「それは強さなんかじゃない、弱さなんだとその人に気付かされた。その人は弱い俺をいつも真っ直ぐに見てくれていた。俺がどれだけ目を逸らしても、無理矢理目を合わせてきた。人を信じようとしない俺の事を、それでも好きだと言ってくれる人だった……だけどその思いに応えて欲しいなんてことは、絶対に言わない人だったんだ。いつか俺がもう一度前を向けるようになるのを、信じて寄り添い見守ってくれた……本当に温かい人だと思ったんだ」
堪え切れず涙を流すセアラとシル。アルは肩口に顔を埋める娘の頭を撫でながら続ける。
「……もちろん人の中にも、自分の利益ばかりを追うものもいる。だけどそういう生き方は寂しいんだ。こちらが信頼を向ければ、信頼を返してくれる、俺はそんな温かい人たちに恵まれた。悩んだり、傷付いたり、迷ったりしながらも、それでも他者を思いやれる強さを持つ、俺はそんな人が好きなんだ。だから……俺もそうなりたい、俺に信頼を向けてくれる人たちの信頼に応えたい。その人たちが平和に暮らすためなら、何だってしてやりたいと思えるんだ」
アルの言葉を反芻するようにアバドンが目を瞑る。
「…………敗者は何を言っても虚しいだけだな。再び力を取り戻すその日まで、お前の生き方を見せてもらうとしよう」
「……その頃には地上で普通に魔族が暮らしているかもしれないがな」
「ふっ……」
僅かな笑みを浮かべ、完全に石化したアバドンが倒れると、その体が上下に分かたれ塵となって消える。
「終わったか……」
アルがアバドンの最期を看取り、臨戦態勢を解いて一息吐くと、シルがアルの背中から降りてすすっと下がる。
「シル?どうしたんだ?」
アルが顔だけ振り向いてシルを見やると、その胸に泣きながらセアラが飛び込んでくる。不意をつかれたアルはセアラに押し倒される形になる。
「アルさんのバカァァーーー!!!バカバカバカ!!」
「セ、セアラ?」
仰向けに倒れたアルに馬乗りになるや否や、その分厚い胸板に何度も鉄槌を振り下ろすセアラ。ポロポロと大粒の涙を流しながら、未だかつて見たこともない程に怒りを露わにする妻の様子に、アルは痛みこそ感じないものの、事態を理解できずに思わずたじろぐ。
「アルさんは間違ってます!そんな……そんな風に自分だけが犠牲になるのは、皆さんの信頼を裏切る行為です!たとえアルさんが何者であったとしても……あなたを信頼した人達は、あなたがいなくなることを望むような人たちなんですか!?皆さんまた戻って来いって……そう言ってたじゃないですか!それでも同じことを言うのなら、私、アルさんのこと嫌いになります!!!」
「そう、か……うん、そうだな……済まなかった」
「皆さんの所に一緒に帰りましょう。それに、私の……私たちの幸せはあなたと一緒にいることなんです。あなたは私たちの家族なんですから……」
「ああ、ありがとう。本当にセアラにはいつも教えられてばかりだな……」
セアラが泣きじゃくったままアルの胸に額を擦り付けると、アルは微かに涙を浮かべて優しく微笑み、その華奢な背中に両腕を回す。
「ぐすっ、う、うぅ、うわぁぁぁぁん……アルさぁん……本当にアルさんだぁ…………ずっと……ずっとこうしたかったんです……この腕で……抱き締めて欲しかったんですぅ」
「ああ」
セアラはアルの手を頭に持っていく。
「ずっとこの手で……頭を撫でて欲しかった」
「ああ」
アルはセアラを抱き締めながら、土と血で輝きを失った彼女の金髪を、慈しむようにそっと撫でる。
「ずっとこの手で頬に触れて欲しかった……手を繋いで一緒に歩いて欲しかった……一緒に晩御飯を食べながら、今日あったことをお話ししたかった……同じベッドの中で、おやすみのキスをして欲しかった……もう一度……もう一度、私の名前を呼んで欲しかった……愛してるって言って欲しかったんです……」
「セアラ……愛してるよ……今日までよく頑張ってくれたんだな……本当にありがとう」
「はい、大変でした……だからアルさんからは、しっかりご褒美をもらいますからね!ずっと、ず〜〜っと我慢していたんですから!」
セアラはアルの頬を両手で包み込むと、強く引き寄せ人目も憚らずキスをする。アルが眠っている間、セアラは願掛けとして一度も唇を重ねることはしなかった。だからこそ、まるでアルが眠っていた時間の分を取り戻すかのように、長い長いキスをする。
「んん、セ、セアラ。みんな見てるって」
アルが少し苦しくなって唇を離すと、セアラは頬を膨らませる。
「いいんです、アルさんがいけないんですよ!地上を去るなんてこと言うから!私、今日はアルさんから離れません、今からお風呂も一緒に入ってもらいますからね!」
「あ、ああ、分かった……そうしよう」
「……はぁ、セアラは何を言っているの?」
「……あんな娘だったかしら?」
張り詰めていた糸が切れたように、怒りながらも幸せそうな顔でアルに甘え、有無を言わさずに自分のペースに引き込むセアラ。戦場に凛々しく立つ姿からの変わりように、ドロシーとクラウディアが呆れた声を漏らす。
そしてそんな二人の会話を聞いていたリタは、同意とも否定とも取れない苦笑いをした後、隣でアルとセアラの様子を静かに眺めているシルに問いかける。
「シルちゃんは行かなくていいの?」
シルはリタの方を向くことなく、ふるふると頭を振る。
「うん、いいの。私はパパとママが仲良くしているのを見るのが好きだから」
「そっか……」
笑いながらも、少しだけ憂いを帯びた横顔を見せるシルに、リタは静かに微笑む。
「でも……場所は選んだ方がいいと思う」
「ふふ、そうね。あの二人らしいけどね」
アルとセアラの周りには、各国首脳を含めこの戦いに参加した者たちが、声を掛けていいものか迷い立ち尽くしていた。
このままでは収拾がつかないので、そろそろ助け船を出した方がいいだろうかとリタたちが考えていると、立ち上がったアルとセアラが同時にシルを見る。
「シル!おいで!」
セアラがシルに向かって手招きをすると、アルが優しく微笑みながら頷く。
「ほら、シルちゃん。行っておいで」
「う、うん」
リタにそっと背中を押されたシルが、二人のもとにとたとたと小走りで向かうと、アルがいつものように片腕で抱き上げる。
「ありがとう。シルのおかげで、こうしてまた二人と一緒にいられる」
「シル、大好きよ。ずっと私たちの娘でいてね」
「……うん……うん!私、ずっと二人の娘だよ!パパもママも大好き!」
そう言って二人の頬にキスをするシルの笑顔は、一歩引いて二人を眺めていたものよりも、ずっと晴れやかであり、一筋の涙と共に美しく輝いていた。
「セアラ、もう一度ここから始めよう、幸せな結婚生活を。もちろんシルも一緒にな」
「はい!」「うん!」
※あとがき
ここまで読んでいただきましてありがとうございます。
お察しかもしれませんが、アルとセアラの物語はここが最大の山場でした。
本編の続きはシルと、この先産まれてくるであろう二人の子供にお任せということで(先行公開している『銀髪のケット・シー』に手を加えます)。
来週からは(今度こそ)二人の幸せな結婚生活を描きたいと思っております。
更新頻度は落ちるとは思いますが、宜しければお付き合い下さい。
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