【エピローグ・ビタミンは用法容量を守って正しく摂取してください】『あいつの顔が見たい夜』
「黙らないでよ。あれでしょ、化粧した私の方で考えてるんでしょ?」
電話越しでも、肘井が毛のない眉をいたずらに遊ばせるところを想像できる。
そうだ、いつもの眉毛のない、男か女かもわからない変わりもの。
おれが看病してほしいのは。
「結局顔かよー、根岸も」
こちらの答えを待たず、肘井はおどける。
おれが今、看病してもらうならどっちがいいだろう。
化粧をして、美しく微笑む肘井か。
眉毛のない、男か女かもわからないような肘井か。
「お前、化粧しなくたって可愛いだろ」
「……は?」
肘井の呆気にとられた声。
ちょっと気持ちがいい。
女は中身。こんな偽善に感じてしまうことだって、ときにはいい。
何でもいいから、肘井に会いたい。
どんなに平凡なやつだと思われてもいいから、お前と。
「今、暇だろ。祝勝会付き合え」
「祝勝会って、今日落選したばっかりじゃん」
「次は勝つんだよ! 未来の芥川賞作品についてたっぷり語ってやるからさ」
「……楽しそーだね」
「ほら。ニンニクくせぇラーメン喰いに行くぞ。ビタミンだってたっぷりだ」
「根岸がいつも行ってるってとこだっけ? ま、おなか減ったからいーけど」
尻は「ケツ」なのに腹は「おなか」と丁寧なのがかわいい。
おれ、もはや病気だな。おかしな魔法にかかった気分だ。
「店の場所わかるよな。前で待ってる」
「ん」
「なんだよ」
「……私、ニンニクは抜きにしようかな」
肘井はそう言って電話を切った。
……ニンニク抜き。
まさか?
いや、ないない。
むしろ、ニンニク臭くたっていい。
おれって本当にどうしようもねぇな。
こんなやつとセックスすることに憧れているんだから。
あー、セックスするにしても腹減りすぎてきっと失敗するだろう。
ビタミンが足りない頭で、おれはどうしようもない決意をする。
作家になったら、肘井に告白をしよう。
いや、別にならなくったって告白くらいしたらいいんだけど。
でもそれはおれの意地だ。
美女を傍らに金持ちになるより、貧乏に違いない末端の純文作家になり、眉毛がない女に告白したいなんて酔狂なことこの上ない。
でもさ、おれが望んでいるのがそれなんだから仕方ないよな。
しゃがみこみ、かじかむ足の指を手で包む。どこかでサイレンの音がした。今日もどこかで誰かが死んだかもしれない。
おれも、知らない人間の死に切なさを感じてもいいのだろうか。
今なら、いいと思える。
偽悪ばかり重ねていると、本当に悪になってしまう。必要なら、ビタミンを摂ることを恥ずかしがらなくてもいい。偽善や偽悪ということばかりに拘り、飲み込まれてはいけない。しょせん偽りなのだ。
肘井は変わり者であるように偽っている、と言っていた。それは見方を変えれば、変わり者に憧れているということだ。
偽ることは、憧れること。
それなら、偽善的に思えることだって怖くない。
偽善ではなく「憧善」。
そう考えてみたって、いい。
新しく書いた小説でも、おれはそんな風な考えを綴っている。
――偽善に苦しむ男と、眉毛のない女の物語だ。
もしかしたら何かが変わるかもしれないけど、バロウズへの敬意だけは変わらないだろう。
バロウズの言うとおり、「おれの感覚の前にあるもの」を、ただひたすら書いた。
格好悪い自分と、自分なりに正面からぶつかったつもりだ。
けど、きっと肘井はこんなストレートな話を照れくさく感じるかもしれない。
きっとはぐらかすだろう。「それよりさ、学校の廊下でセックスする計画立てよ?」なんて、店の中で人目も気にせずゲラゲラと笑うに違いない。
早くそんな顔が見たくてたまらなくなる。
きっと、おれが書いた小説のヒロインの、百倍いい顔して笑うんだ。
こんなにあいつの顔が見たくなるなんて、これも午前三時の魔法だろうか?
おれはラーメン屋を目指し、自転車に跨る。
『根岸って、自転車に女の名前つけてんでしょ? 名前呼んで跨るんでしょ? ていうか私に跨ってみたい?』
極大解釈された肘井の言葉が、土足で脳内に上り込んできた。
名前?
ちひ……。
いや、さすがにそれは。
「……いけ、流星号」
誰もいないのに誰にも聞こえないように呟く。
女の名前つけるなんて余計なこと言わなきゃよかった。
『うわー、根岸ってマジヘタレだね』
あー、うるせぇ。
見てろ、作家になったらひいひい言わしてやるからな。
照れ臭さでいてもたってもいられず、ペダルを強く踏み、夜の街を駆けた。
【了】
おれたちにはビタミンが足りない 肯界隈 @k3956ui
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