【エピローグ・ビタミンは用法容量を守って正しく摂取してください】『んー?』

「……はぁ」

 原稿を出し、ひと山越えて肩の力が抜けると、今度は肘井とのやりとりを思い出してため息が漏れる。

 どうしてあんな言い方しかできなかったのだろう。結果なんか期待してないと言葉を重ねていたくせに、あわよくば、なんて思っていた。

 他人への甘えと自分への甘さが入り混じった、どうしようもない考えに自己嫌悪に陥る。

 それを見透かされた気がして、反射的に怒ってしまったんだ。

「だー、もう」

 郵便局を出た後も、原稿を書き終えた爽快感より、肘井に対して謝るべきかどうか、そればかり考えていた。

 電話をかけようとするが、手が震える。きっと寒さのせいだ。

 あんな一方的に電話を切ってしまい、肘井も怒っているだろうか。

 以前までの肘井なら、何があっても怒るなんてところは想像すらできなかった。

 しかし、半年前の一件以来、おれは距離を測りかねている。

 ビビを通し、おれは彼女の人間としての核心に迫る出来事に遭遇した。

 そこから、こう思うようになった。

 今までと同じ接し方でいいのだろうか。変わり者の肘井としてではなく、普通の女性として肘井を扱わなければらないのだろうか、と。

 こちらの考えを知ってか知らずか、肘井は態度を変えることはなかった。喋り方、仕草から何から、余裕のある変わり者の肘井のままだった。

 だからこそ難しい。

 何気ない軽口で傷つけてしまうかもしれない、などという考えが過るようになってしまったから。

 ビビの死という非日常におれたちはおかしくなっていただけで、結局夢が覚めてしまったらおれたちは元通りなんだろうか。

 それとも、進むきっかけを得たにも関わらず、おれが機会を逸し続けているのだろうか。

 付き合う、セックスをするなんてことは論外だった。

 あのとき、廊下で「やって」おけば何か変わっただろうか、とすら考えてしまう。

 最低だけど、これは切実な悩みだ。

 変わり者としての肘井を肯定していなかったら、あの化粧をした綺麗な姿の肘井がおれの隣にいたのかもしれない。

 誰もが羨む美女を傍らに、将来は医者になりゃそれはもう……。なかなかの成功の人生。

 いや、現実逃避していても仕方ない。

 医者になれるかもわからないし、美女どころか肘井は眉なしの変わり者として振る舞い続けている。

 おれがいつまでたっても、偽悪を続けてしまうように。

 あー、頭痛がしてきた。

 ダメだ、いくら悩んだって埒が明かない。

 頭がオーバーヒートしてカッカする勢いで、電話を掛ける。

「……んー?」

 肘井は電話をしても「もしもし」とも「はいはい」とも言わない。

 最初は「んー、ってこたぁないだろ」と苦笑いしていたが、いつの間にかその気の抜けた応答に心地よさすら覚えていた。こんなときでさえ、口元が緩むのがわかる。

「あのさ」

「あ、もしかして謝ろうとしてる?」

「……まぁ」

「いーよ、別に。電話切られた直後は何こいつとか思ったけどね」と彼女はおどける。

「今、新しく書いた原稿を出してきた。前のより、自信がある」

「そう」

「……」

「……」

 え、終わり?

 もっとこうさ……楽しみだなんだって……いや、せめて今回のがどんな話かきくとか……肘井にそんな普通の反応求めてるのが、どうかしてるのかもしれないけどさ。

 よくない傾向。

 変わり者の肘井を求めているくせに、同時に普通の女の子みたいに喜んだりはしゃいだりするのを期待してしまう。

 まずい、明らかに肘井のこと好きになってんじゃん、おれ。

「ねぇ」

「……なんだよ」

「根岸、今日もビーサン?」

「は?」

 おれは自分で何を履いてきたかなんか知っているはずなのに、思わず足元を確認してしまう。ビーサン。片方が黄色、もう片方がピンク。『裸のランチ』に敬意を込めて。

 おれが世の中に染まるかと反抗する、唯一のシンボル。

「カゼひくよ」

 答えるまでもなくそうだと思ったのだろう、肘井は続けた。

「ひいたってお前は困らないだろ」

「カゼ、ひいてくれるの?」

 どんな答えが返ってくるのかと思ったら、まさか「ひいてくれる」なんて。おれの風邪を楽しみにしている奴なんか、どこにいるってんだろう。

 呆れながらもその反応に心が躍ってしまう。

 普通の反応を求めていたことなんか忘れてしまいそうだ。

「ひいてほしいのかよ」

「うん!」

「……元気な返事をありがとな」

「看病、してみたいんだよね! 今までさー、やってあげるって言っても断られ続けてて」

「……」

「母さんも弟もさぁ」

「別に他に男がいるかもとか、嫉妬してねぇから」

 もちろんバリバリ気になってたしホッとしたけど、悟られてたまるか。

「断って正解だ。お前に看病されるのコエーもん」

「ケツにキュウリさすといいんだっけ?」

「……ネギな。いや、ネギも実際いいか知らねぇけど。やっぱコエ―わ」

 あと、悔しいけど「ケツ」という言い方はかなりグッと来た。

「いいじゃん。ね?」と肘井はからかうように甘い声を出す。こういうときだけ甘えやがって。

 化粧をした肘井がベッドのそばに膝立ちになり、寝転がったおれの顔を覗き込んで微笑みかけるところを想像してしまう。キュウリとネギの二刀流が激しく気にはなるが。

「……」

 クソ。かわいい。

 天使。いや、それは合わない。

 人の脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜる悪魔だ。

 こんなひとりの女に踊らされているおれが、世界を見下していたんだから笑っちまう。

 世界を見下すというのは、自分が優れているという幻想の中にいられる方法だ。

 ひどく平凡な防御反応。もちろんそれを完全に捨てることはできない。

 ようやく、自分がそういう臆病さを持っていると知ったレベルにすぎないのだから。

 でも、明らかに気づき始めてしまっている。ビタミンの必要性に。

 ……いや、大丈夫だ。

 変わることを恐れるな。

 おれは肘井にそう言った。自分で言ったことじゃないか。

 逆に言えば、変わりたくなってそう簡単には変われないものだ。明日になったら、またビタミンを馬鹿にしている自分に戻っているのかもしれないのだから。

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