【エピローグ・ビタミンは用法容量を守って正しく摂取してください】『午前三時』
午前三時ってのは、なんとも不思議な時間だ。
道行く他人にも、昼間にはない親近感を覚える。友情めいた連帯感と言ってもいい。
……と、言っても、それは片想いらしい。
郵便局の受付は、こないだの爺さんとはまた別の老人で、ひどくビジネスライクな対応だった。
あのじいさんとは、あのライブの後一度もあっていない。ビビに対して何か思うところがありそうにも見えたが……。いや、いいんだ。
もう、そのことをおれが語るべきじゃない。
あのじいさんのように話しかけてくることもなく、受付の男は淡々と事務的に封筒を受理した。
あのー、「新人賞係 御中」って書いてますけど、何かないんですかね。
なんて思ってしまった自分に胸中で失笑する。
書類を受理されると、おれは小さく会釈して「ども」と呟き、背を向ける。
「きみ、ビタミン足りてるかい?」
そんな言葉が聞こえたような気がした。おれはあのとき、「そんなものはいらない」と答えたはずだ。
今なら、なんて答えるかね。
「……いいサプリないっすかね?」
建物を出て、誰にも聞こえないような、ごく小さな声で呟いた。
その呟きは、白いもやになって宙に消えた。
先月まで季節外れの猛暑が続いていたのに、十二月に入った途端吐く息が白くなるほど寒くなった。
壊れ始めた四季というやつも、かろうじて体裁を保とうと必死。最早いじらしく感じる。
大通り特有の強い風が吹き抜け、耳がちぎれそうなほどの暴力的な寒さにさらされる。静まり返った深夜の街に、凍結した道路を踏むタイヤの音だけが響く。
車が走っているのにもかかわらず、世界に自分ひとりだけになった気分になる。
もっとも、ひとりきりだったら、小説なんてものは必要ないだろう。
物語が存在することは、そこらに人が歩いていることより、自分以外の人間がこの世界に存在することを裏付けてくれているのだ。
今回出した小説は、ビビの死ぬ前に書いたものと大きくテイストを変えた。
ストーリーだけではなく、小説を書く心構えの問題だ。
前回は自殺する少女の走馬灯を描いた作品だった。感動を求めず、心情からは乖離した悪夢のスケッチ。おれみたいな、「みんなと同じ正しさ」を持っていない誰かに向けたつもりだった。
でも、それは物語に感動する人間を単純だと笑い、見下していたにすぎない。これも手のひら返しだろうか。いや、そんな考え、足を止めるだけだ。
素直にこの世界に感動できないおれだからこそ、自らの心情にとことん付き合ってみないといけない。それはきっと、あのライブの一件が大きく関係している。
この話を、誰よりもしたいやつがいる。
でもおれは連絡するのを躊躇っていた。昨日のことを思い出すと気が重くなる。
昨日は、半年前の夏に小説を投稿した、文芸誌の発売日だった。選考結果が発表されるとあって、その前の晩は寝付けなかった。
ぼんやりと微睡む頭のままサンダルを履き、開店直前の最寄りの本屋に向かった。通行人が、小さな本屋に開店前から並んでいるおれを訝しげに見つめる。
そんなことは気にもならなかった。結果のことを考えると鼓動が止まらなくなった。
クソ、思いつきでいい加減に書いたはずだ。期待なんかしてないはずなのに。
すると、肘井から電話がかかってきた。
「残念だったね」
出るなり、肘井の呑気な声。主語のない唐突な一言でも、何が「残念」なのかは明らかだった。
「何が」
その悪報が何か理解しながらも、とぼけて尋ねる。彼女も発表日を知っている。ネットで結果を見たのだろう。
「え? 何がって、そりゃ……」と肘井はきょとんとした。
いつもなら軽口の一つ叩くところだが、何も頭に浮かばない。
「言い方あんだろうよ」
絞り出した言葉は、自分でも発した瞬間にわかる八つ当たりだった。
「ま、ま、次があんじゃん。私、ホントに期待してんだって。根岸がえらーい作家先生になるのをさ」
「いちいち茶化すなよ。むかつくんだよ、お前のそういうとこ」
「でもさ、一次通ってたよ? すごいじゃん、初めて書いた小説で……」
彼女が喋っている途中で、思わず電話を切ってしまった。
おれは本屋で結果を確認することなく、家に戻って新たな原稿を仕上げることに集中した。書くことでしか、気を紛らわすことができなかった。いくら落選したとはいえ、ただそうですかと諦める気はない。
ビビには、年内に作家になると約束したが果たせなかった。でも、おれは嘘つきにはなりたくない。どんなに遅れたって、作家になってやると燃えていた。
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