【第5章・やっぱりおれたちにはビタミンが足りない】『伝説作んぞ』

 そもそも。

 ライブに出るどころか、ライブハウスに来たこと自体一度もない。

 鰻の寝床という言葉がぴったりな細長く狭い楽屋。両面鏡の前でメイクをしている演者たちでごった煮状態。

 背中や肘がぶつかり合うのは当たり前といったところだろう。

 ハードコア系のライブだけあって、皆、外見には相当のパンチがある。

 いや、おれだってロン毛眉なしでインパクトは負けていないはず。だが、内心はスラム街に放り出された海外旅行者。不安を悟られぬよう、無表情で場を静観する。

「ちょい、肘井」

 肘井がスキンヘッドの男につかまる。出演バンドのリーダーが集められているらしい。出演をキャンセルしたバンドがいるようで、登場の順番やセットリストを変更したいということだ。肘井がその話をしている間、おれはぽつんと所在無く立ち尽くす。

「……」

 見かけない姿だからか、おれは演者たちからじろじろと観察される。

 愛想笑いもおかしいし、無関心を装う。

 どうしよう。不安。

 ただただシンプルにこんな不安になったのはいつぶりだろう。

「おい、ちょっと」

 楽屋の外で話し合うことになったらしい。たまらず肘井を呼び止めると、彼女はこちらの心中を察してか、にやりと笑った。

 蛇女め。

「行かないでほしい? あ、不安なんでしょ?」

「……っせぇな」

「すぐ戻ってきてあげるからね」

 さっきまでの笑顔とは違い、母性的に微笑む肘井。

 すぐ戻ってきてくれと懇願するのはプライドが許さず、おれは無言で見送る。

「……」

 おれは携帯を手に取り内容を見直した後、肘井にメールをする。

 書き上がった歌詞を送信した。

「きみ、肘井の知り合い?」

 一息ついたところで声をかけてきたのは、顔中ピアスだらけの女だった。

 耳、唇、鼻からたまにのぞく舌にまでピアスまみれ。鈍色のピアスに顔が埋もれているように見えるくらいだ。

「……」

 人間、ここまで顔に穴をあけられるものなのか。思わず息を呑み、まじまじと顔を眺めてしまう。そしてやはり、眉毛がなかった。だから話しかけてきたのだろうか。

「もしかして肉体信仰の新しいメンバー?」

 ピアス女がケラケラと笑う。あれ、笑うと意外とかわいいかもしれない。

 肘井のせいで、こういうサブカル女に対する変なフィルターができてしまった。「普通の恰好をすると実は可愛いんじゃないか」なんて。

「まぁ、そんな感じすね」

「私ね、あいつ嫌いなんだ」

「……」

「たぶん、ここにいる全員。あいつさ、ここにいるくせにバンドとかやってるやつ見下してるってかね。いい大学行ってるらしいし、余裕なんでしょ?」

 女はまた笑った。うん、やっぱりかわいいな。

 わざわざそれを言いに来たんだろうか。

 考えてみれば、ここまではっきり肘井の悪口を言っている人間を見たことがない。大学でも大抵、腫物に触るような扱いを受けているからだ。

 だからだろう。負の感情を抱く以前に、純粋に驚いてしまった。

「……そうなんすか」

 つくづく、おれはどうしようもないやつだ。

 おれはあいつのことが好きで。

 どうしておれなんかに構ってくるんだろう、と思うくらい魅力的で。

 あいつの魅力がわかるのはおれだけだ、と誇らしくなる。

「いい大学ね。あいつはね、あんたが思ってるよりバカっすよ」

 あいつはへらへらとしていて無責任そうに見えるし、誤解されるだろうけど、それも肘井らしくていいと思う。

「何かを成し遂げるタイプのバカです」

 女は難色を示したが、反論する価値すらないと諦められたかもしれない。

「根岸ー?」

「!」

 戻ってきた肘井がからかうように目を細め、近づいてくる。

「んだよ」

「なんでケンカ腰?」

「今の話聞いてたのか?」

「ん?」

「聞いてないならいい。だからなんだよ」

「出番だって」

「出番?」

「いこ」

 肘井はそう言っておれの手を取った。一瞬どきりとするが、平静を装う。

 彼女はピアスだらけの女に「根岸の手、握ってみ? こいつさ、めっちゃくちゃ手ちっちゃいの!」と無邪気に笑いかけた。

「そんなに小さくねぇよ」とおれは反論する。

「……たしかに、馬鹿だな」

 ピアス女は当然、おれの手など握らなかった。おれと肘井を交互に見て毒づく。

「握ったら絶対笑うと思うけどなー」

「つかそこじゃねぇよ! 出番? おれは出ないぞ、歌詞はちゃんと書いただろ!」

「いいからいいから」

「ざっけんなよぉぉ!」

 いや、歌うなんて絶対無理だって!

 おれは思わずピアス女に助けを求める眼差しを送る。彼女にとっては他人事だ、つまらなさそうに手を振るだけ。他人に正しく他人みたいな顔をされるのは、今日初めてかもしれない。

「根岸」

「んだよ!」

「伝説、作んぞ」

「ふ」

 ざけんな、と全力で拒みかけたところで、おれは息を呑む。

 肘井の真剣なまなざし。

 こいつは誰も笑わないことでゲラゲラ笑うくせに、人が冗談でしか言わないことを真顔で言う。おれはその熱にあてられたのだ。

 何かが起こせるかもしれないという、根拠のない自信が湧いてきた。

 だから、だろう。

 具体的なプランもないのに、ステージに上がってしまったのは。

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