【第5章・やっぱりおれたちにはビタミンが足りない】『がんばれよ、根岸五臓六腑っ』
「ねぇ、根岸。きいていい?」
猛スピードでペダルを漕ぐ肘井が振り向き、おれに問いかけた。化粧を落とした、いつも通りの眉なし状態の肘井。女と自転車の二人乗り自体が初めてなのに、おれは後部座席で女座り。
「前見ろ、前!」
「はいはい、そんなに怒らないでよ」
「いいから集中させてくれ!」
おれは携帯のメモに歌詞を書き続けながら怒鳴った。目の端に入る歩道のポールを、足を斜にして避けながら、必死に頭をひねる。今どのあたりを走っているのかさえわからない。
ビビに捧げる歌詞か。何をどう書いていいのか、正直迷っている。果たしておれに、そんなものを書く権利があるのか。そんな後ろめたさが邪魔をする。
今更考えるべきではないのは分かっているのだが。
「根岸って自転車に名前つけてるタイプ?」
「は?」
「いけ、流星号! とかひとりで言ってるんでしょ?」
「……」
さっきまで屋上で肘井と話していた時間が、夢だったような気さえする。彼女は今までのように、おれには予測のつかない変人のままだ。
「なんだよ、かわいいじゃん」
「言うか! 名前つけるとしても流星号はねぇ!」
「じゃあなんて名前?」
「……女の名前かなんかつけるかよ。跨ってひいひい言わせてやる」
「おわー、ゲスいな。キャラに合わない背伸びした冗談をありがとう」
「っせぇんだよ、話しかけんな、てゆうか集中できねぇから!」
「怒るなってぇ」
いくら考えても、歌詞はまとまらなかった。
おれは肘井に言った。
ビビのことを忘れることはない。思い出が大切なら、忘れる必要はないと。
肘井はきっと、振り返りたくなる衝動をこらえ、前に進む決意をしたのだ。
それでも、おれはまだ屋上で起きたことを消化できずにいる。
おれは屋上で、あみだくじを破り捨てた。あみだくじはビビの死因でもあり、肘井とビビの思い出でもあり、想いの残った遺書でもある。
一体、肘井はあのときどう思っただろう。
ビビが死んだ原因を知り、いたたまれなくなったおれが、思わず紙を破り捨てたように見えただろうか。その感情的な行動に、憤りを感じただろうか。
そうならいい。その怒りは、いずれ薄れていくだろうから。
しかし、実際はそうじゃない。咄嗟にしたおれの判断は果たして正しかったのか。今でも葛藤している。
あみだくじを辿った結果、ビビが選んだのは確かに〈飛び降り自殺〉だった。
しかし、おれはあることに気づいてしまった。
屋上で雨が降ってきて、あみだくじの紙を濡らした。すると、消しゴムをかけたあとがくっきりと目立った。〈飛び降り自殺〉の前に書かれていたであろう、文字の形跡が浮かび上がってきた。
〈好きな男の子と廊下でセックス〉
――そうだ。ビビは書き直し、結果をすり替えた。
本当に〈飛び降り自殺〉を引いていたのは、肘井の方だった。
ここからは、おれの勝手な推論だ。
ビビはおれと屋上に行った際、あみだくじの結果を知った。
元々最初は、肘井が「飛び降り自殺」を引いていたのだ。
ビビはその結果を知り、こう思ったんじゃないだろうか。
もし、肘井が四年前の約束通りあみだくじを確認しに来て、この結果を知ったら。肘井はそれに従い、本当に飛び降りてしまうのではないか、と。
肘井が高校のときから変わらない想いを抱き続けていると信じて。
だから、ビビは結果を書き換えた。
H(肘井)――〈好きな男の子と廊下でセックス〉
Ⅴ(ビビ)――〈飛び降り自殺〉
というように。
ビビは肘井を守るために、自分が飛び降り自殺を引き当てたとねつ造したのだ。
……おれは、誰しもがまず考えるように、「直接会って、『こんなこともあったね』と笑い話にしてしまえばよかったのに」と思った。
でもビビはそれができないやつなんだろう。
正直、ビビに会ったとき、高校のときから随分変わってしまったと感じていた。
容姿がそこまで変わっていないのにもかかわらず、最初は誰だか分らなかったくらいだ。
それに、「みんな」という言葉に引っ掛かりを覚えていたはずのビビが、その言葉を使っていた。彼女の中で変化があったのだろう。
大人に対する反骨心が薄れ、変化をしている悲しさを実感していたはずだ。普通なら、それを「成長」と呼ぶのだろうが。
それでも、ビビの根っこは変わっていなかった。肘井も変わっていないだろうと、ビビは信じていたはずだ。
ビビだって、迷っただろう。おれには想像できない恐怖と闘っただろう。
自分の誓いを守るため。肘井を守るため。
そのためだったら、ビビは屋上から飛び降りることができてしまったのだ。
彼女は変わってしまったことを恥じていたのだろうか。
おれは、ビビは最後までビビらしかったと思う。不器用すぎて、誰しもがその痛々しさに魅せられてしまうのだ。
だからおれは、彼女の想いを受け取った。
ビビの優しさを無駄にはしたくなかった。
肘井は真相を知ったら自分を責めるに違いないから。
この心のつっかえは、誰にも話せない。
それでもいい。そのうち薄れるはずだ。
肘井は今、前に進もうとしている。その邪魔だけはしたくなかった。
「……書けた? ねぇ、書けた?」
肘井がハンドルから片手を放し、後ろ手でおれを小突き、ちょっかいをかけてくる。
「あー、うるせぇ!」
顔を上げ、どこまで来たのかを認識する。
大通りから踏切を渡り、居酒屋やキャバクラが並ぶ、ごみごみとした繁華街に入っていく。こんなところで二人乗りをしているのはもちろんおれたちしかおらず、好奇の目にさらされる。
おれらのいでたちもあってか、ほとんどの人間は遠巻きにこちらをうかがうだけで、人の群れがきれいに割れる。そんな中、脇にいたキャバクラの呼び込みの男に指をさされ、笑われた。
それに負けじと、肘井もげらげらと笑い返した。眉のない女が、狂ったように笑っているのを見て、男は凍りつく。肘井はそれを見てさらに声を高くした。
そんな光景を見ていたら、委縮していたのが馬鹿馬鹿しくなり、つられて破顔してしまう。
「根岸、楽しそうだね」
その言葉を聞いて、人体解剖室で初めて肘井と会ったときのことを思い出した。
放課後、残って解剖をしているおれに肘井が話しかけてきたのが最初だった。そのときも確か、彼女はおれを見て「楽しそうだ」と言っていた。楽しそうだなんて言われたことは今までなかったかもしれない。
「……どうかね」
素っ気なく言いながらも、にやつきが止まらなかった。
誰かと話していて、こんなにも楽しいなんて今までほとんど思ったことはない。
お前といるから楽しいんだ。
今考えてみれば、最初に話しかけられた瞬間から、肘井のことが好きだったんだろう。
振り返るほど、おれたちが出会ってから何かが起きたわけじゃない。
起きたとしたら、今日だ。
今日、おれたちの関係が動き出した。
ビビがおれと肘井を引き寄せ、彼女の死によって、肘井との関係が加速したんだ。
まるでビビに、肘井を任されたような気にさえなる。
おれは誰かを預かれるような立場にはない、といつもなら逃げてしまうだろう。
でも今は違う。
肘井の願いを叶えられるのはおれしかいない。
どうにか、彼女のために歌詞を書きあげるんだ。
肘井は言っていた。おれとビビは似ていると。
だとしたら。
ビビへの追悼とは、おれが今、思っていることを綴ることなんじゃないかと思った。
彼女に会ったことで、何を感じ、何が変わったのか。
それを書いていくしかない。
「行け、流星号!」
今、胸中で起きているわだかまりと、昂揚感、すべてが混ざった名状し難い感情を叫びたくて。
でも、何を叫んでいいのかわからなくて。
だから、咄嗟に自転車の名前を叫んだ。
「あ、やっぱ名前つけてんじゃん」
「今つけたんだよ!」
「……あ、あそこあそこ!」
肘井が指差した先、大型スーパーの脇のビル。その地下の階段に、ライブハウスのネオンが見えてくる。
ライブか。
……あれ、なんか緊張してきたかもしれないな?
「おれ、ライブは出なくていいんだよな?」
「?」
「なんだその無垢な顔は! 不思議そうにするな!」
「がんばれよ、根岸五臓六腑っ」
「うそだろぉぉぉぉ!」
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