【第4章・肘井ちひろにビタミンはいらない】『先輩へ』
「おい、あんまりデカイ声出すと……」
根岸が言うは遅く、私の背の方から駆けてくる足音が聞こえてきた。
「君達―?」
野太い男の声だ。警備員だろう。
「逃げるぞ」
根岸が私の手をとる。
「え」
「ライブ、もうじき始まるだろ」
「え、出るの?」
「おれは出ないってば」
「出てよ」
「それは後だ! とりあえず、こんなとこで捕まってる場合じゃねーだろ!」
力強く握りしめてきた根岸の手は、小さかった。
こんな髭面のくせに、ちっちゃい子どもみたいな手。
ホントにまだ、知らないことだらけなんだな。
「だはははっはっはっははは!」
廊下を走りながら上を向いて更に大笑いして、喉が痛くなったけどそれでも止められなかった。
笑うのも、走るのも。
「……お前、心配しなくたって充分変だよ」
根岸は呆れながらも、手をさらに強く握ってくれた。
「止まれ」
根岸は急に立ちどまり、廊下の先を指さす。遠くに見える階段の前には、警備員とひとりの大柄の青年が立っていた。挟み撃ちにされるかと思ったが、その警備員はこちらに気づいていない。どうやら、青年に説教するのに気を取られているようだ。いたずらで忍び込んだのを見つかってしまったというところだろう。
青年だけがこちらに気づき、ハッとした顔をしたが、すぐに俯いた。
あの子、たしかプールでシンと一緒にいたもうひとりの子……?
まぁ、今はいいか。足どめご苦労様。
「駄目だな、階段は塞がれちまってる……」
根岸は左右を見回し、窓の鍵を開け、身を乗り出す。
窓の下には、自転車駐輪場のプラ板の屋根が見えた。
「あそこに飛び移るぞ!」
「え、マジ?」
「無理か?」
「……ううん!」
根岸は私の返事を聞くと、手を離し、躊躇せず窓から飛び降りた。窓を覗き込む私に、屋根に着地した根岸が声をかけてくる。
「いけるか?」
「ねぇー!」
「?」
「根岸って、手ちっちゃいね!」
「は?」
「てことは、あそこも小さいのー?」
「はぁぁ、どういう理屈だよ!? そういうのいいから、こいって!」
根岸が大きく両腕を使って招く。私はクスクス笑いながら窓に足をかけ、根岸が聞きとれないくらいの声で呟いた。
「いつか、今度こそ廊下でしようね」
「あぁ? なんだってー!?」
「なんでもなーい!」
私は根岸に向かってジャンプする。
これから根岸と生きるために、飛び降りたんだ。
ビビ先輩。私は今、こんなにも楽しいです。
先輩だって生きてたら、もしかしたらこうやって笑えていたかもしれないのに。
私だけ楽しくなっちゃってごめんなさい、とは言わないですよ。
もっと、ふさわしい言葉があるような気もするけど、先輩を納得させられるような小難しかったり、面白いことは何も思いつかないけど。
ぱっと浮かんだ率直な言葉を、一つだけ送ります。
ねぇ、先輩。
私、先輩のこと、本当に大好きだったんだよ。
【第4章・終】
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