【第4章・肘井ちひろにビタミンはいらない】『哀しいなら、哀しいでいいだろ』

「しなきゃいけないの」

 自分の心臓の音が根岸に伝わっていないか、不安で仕方がない。

 不純異性交遊禁止、なんてご機嫌な言葉が頭を過った。学生手帳の校則かなんかに、書いてあったっけ。

 不純じゃない異性交遊などあるものか。

 私は偽善を恐れている。偽善的な私たちは、それを突きつけられるのが怖いんだ。

 だったらとことん、悪の方へ向かってやる。

「どうしたんだよ?」

「どうしたもこうしたも、ムラムラきちゃってさ」

「じゃなくて、お前、なんで……?」

 根岸は自ら顔を拭い、問いかけた。

 彼が拭ったのは、私の目から零れた涙だった。

 ぽたぽたと根岸の頬に落ち、それはとめどなく溢れてしまっていた。

 私は、気付かないうちに泣いていた。ビビ先輩の顔が浮かんで、明滅し、消えかけても、私は彼女のことを忘れることを拒んでいた。

 私は完全に戻っていた。

 あの頃の自分だ。

 今だって、屋上に吹く強い風音、居心地の悪い教室のざわめき、口うるさい担任の説教、あのとき煩わしかった音、すべてが聞こえてくる気さえした。

「泣いてるのか?」

「わかってるなら訊かないでよ!」

「お前、やっぱりビビのこと……」

「哀しくないって言ってるじゃん! 哀しいなんて言う権利、ないんだよ。私はあのときの先輩の気持ちを踏みにじって、都合よく生きていこうとしてる。根岸だって、いつかがっかりする。私は根岸が思うような変わり者でもないし、つまらない普通の……」

 喋れば喋るだけ、涙が溢れる。

 これは偽善的な涙。そう自分に言い聞かせる。

 自己憐憫と、この学校の懐かしさで泣いているだけ。

 涙を手の甲で拭っても拭っても、滲んだマスカラやアイライナーで黒く汚れるばかり。

 目をぎゅっと閉じた。そうしたって涙が零れてしまうのはわかっているけど、どうにか止めたかった。

「!」

 私は驚いて体を強張らせる。根岸の指が私の目の下に触れたからだ。拭うように、そっと撫でた。指先は冷たかった。

「……何言ってんだよ、お前」

 根岸は呟き、ゆっくりと私の眉をなぞる。そっと目を開けると、黒く汚れた指が見えた。

「ちょ、何やってんの!」

「うっせぇ」

 暴れる私をおさえ、根岸は濡れた指で私の眉を擦る。

 私は、ずっと眉毛を剃っていた。

 でも、今日――ビビ先輩の死を知ったときから、そんなことはやめようと思っていた。

 私は今日、眉毛を描いた。

 あまりに単純かもしれないけど、ずっと眉毛を剃り続けた私にとって、それは過去の自分との決別の象徴だったのだ。

「やめてよ、眉毛なくなっちゃうって」

「今日のお前、おかしいんだよ。化粧なんかしてさ」

「私は変わらなくちゃいけないの。ずっとずっと、高校生のままじゃいられない。ビビ先輩と一緒にいたときのままじゃいられない!」

「バカじゃねーの、お前」

「なんでそんな言い方するの?」

「思い上がりなんだよ。化粧なんかで変われるか。つかさ、お前が特別な人間だから一緒にいるって言いたいのか?」

「……ずっとそう思ってた。悪い?」

「お前が根っからの変人女だなんて、一度も思ったことねぇよ。そんな完璧に狂ったやつと一緒にいられるわけねぇだろ」

「ずっと、そう思われてるって……。思ってくれてるって……」

 嗚咽が止まらない。呼吸が乱れ、思考までも乱れる。

「おかしい部分も、普通の部分もあるだろ。急に普通の人間に変わるとか、変わらないとか、どちらにせよ無理なんだよ」

「わかん、ないよ。根岸は何が言いたいの? 私が平凡でつまらないって、そういうこと!?」

「ちげぇよ」

「じゃあ、何!」

 根岸は私がそうしたように頬を両手で挟んできた。

 彼から視線が外せない。

 根岸は、言った。

「哀しいなら、哀しいでいいだろ」

 と。

「……え?」

「そりゃ、お前は高校を卒業してなにかは変わっちまったかもしれない。お前の言う、大人たちが身につける一周回ったような楽に生きる方法とか、身の程わきまえるとか、そういうの」

「……」

「死を悼むなんて、偽善的かもしれない。だっておれたち、次の日すげー面白いことがあったら笑ってるに違いねぇから。だからって、無理に自分の気持ちねじ曲げることはねぇよ」

「でも」

 根岸は私の口を掌で塞いだ。

「でもじゃねぇ。お前の中に変わらない部分があるのだって、事実だろ。どうして大切なところまで変えようと思うんだよ?」

 私にとって、大切なこと。

 それは。

「ねぇ、根岸」

「……ん」

「私、泣いてもいいの?」

「いい」

 根岸は頷く。力強く、私を後押しするように。

「哀しいって、思ってもいいのかな?」

「あぁ」

「先輩のこと、あのときの私のこと、忘れなくても……」

 途端、言葉を遮るように根岸の顔が近づき。

 唇がそっと、私の眉に触れた。

 バカみたいに優しくて、子供じみたキス。

 かつて、「廊下で、下品なディープキスをしながらセックスしてやろう」と思っていた私に見られたら、大笑いされてしまうだろう。

「忘れるな」

 根岸は、微笑んでいるような、哀しんでいるような、色んな感情がないまぜになった表情のまま、私の眉をもう一度撫でた。

「何が変わったって、お前の中に、大事な部分はちゃんと残るから」

「……でも、眉毛ないと私、可愛くなくなっちゃうよ。せっかくこんなに可愛いのに」

 私は根岸の真剣さに照れ臭くなり、どうにか冗談を言ってみせた。

「可愛くなんかなくていい。何が変わっても、譲れないところは意地でも貫け」

 シリアスな顔をして、女に眉毛を剃り続けろという。

 お互いに好きだのなんだのという言葉は、一言も交されていない。

 そういうロマンチックさとはかけ離れた時間が、私にはとても心地よかった。

 根岸の言うことは、もしかしたら傍から見たら都合のいいことかもしれない。

 でも、それでもいい。

 都合のいいことを言わない根岸が、私のために初めて都合のいいことを言ってくれたんだから。

 私は先輩に許しを求めていた。屋上で過ごしたこと、都合の悪い過去を忘れることだ。

 先輩を根岸に重ね、彼から許されることで、そうすることができると思っていた。

 でも、今は違う。

 過去を忘れるのではなく、未来を、根岸と一緒に歩きたいと思ったんだ。

「だ」

 根岸の真剣な顔を見ていたら、思わず口の端から息が漏れた。

「だ?」

「だっははははははははっはは! あー、だはははっはは!」

 笑ってしまった。壊れそうなくらいの大声で。

 高校のときの私は、なんだかわからないことでしか笑えなかった。

 今、私は笑っている。どうして笑っているんだろう?

 なんだかわからないから?

 ……なんでもいいか。

 とにかく、嬉しいんだ。

「だっははははっははははは!」

「ど、どうした?」

 私の狂ったような発作的な笑い声に驚き、根岸は目を丸くした。

「驚きすぎ! だは、ははっはははは!」

 先輩。ごめん。

 眉毛を描いた理由は過去の自分と決別するためとか、根岸といるときは変わり者でいられるとか。

 もっともらしいこと考えてみたんだけど。

 結局、一番大切なことはすごく簡単だったのかもしれない。

 いつだって私は、好きな人が驚く顔が見たいんだ。

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