【第4章・肘井ちひろにビタミンはいらない】『執行猶予としての青春』

「私も先輩に乗りますよ」

 先輩から紙をぶんどり、二本の縦線の右側に、「H」と書き殴った。先輩は驚いていたけど、私が譲らないと思ったのか、諦めてため息をついた。

「じゃあ、どちらかが死ぬのね」

「そうなりますね」

 私はなんでもない、というフリをして素っ気なく言った。

 右の線の下には、〈飛び降り自殺〉とビビ先輩の文字で書いてあった。

 こっちに当たったら、死ぬ?

 一瞬目で辿りそうになるが、それはルール違反だ。目を逸らす。

 しょせん遊びだ、と不安を鎮め、高揚感に身を任せた。

「もう一つはどうするんですか?」

 〈飛び降り自殺〉の隣の空白をなぞり、私は尋ねた。

「好きなことを書いてもいいわよ」

「じゃあ」

 私は〈廊下で好きな男の子とセックス〉と書き、クスクスと笑った。

 内心は怯えていたから、おどけてしまったのだ。

 その〈飛び降り自殺〉という死のにおいに震えていた。別に〈飛び降り自殺〉を引いてしまったところで、「こんなの遊びじゃないですかぁ」なんて、冗談でごまかせばいい。

 ゴネて先輩に嫌われてしまったところで、それはそれでしょうがない。

 まったくリアルじゃないはずの、死。

 いくら変わり者の先輩だって、あみだくじで自分の生き死にを決めるほど投げやりに生きちゃいないだろう。普通に考えればそうだ。

 だけど、どうしてだか楽観的になれなかった。

 私には、ただルーズリーフに書かれたそのあみだくじに、絶対的な強制力が宿ったように思えてしまったのだ。

「……」

 先輩は頷き、私の隣に「V」と書いた。

 そしてその紙を畳み、『裸のランチ』の文庫本に挟んだ。

「これが本当の遺書。さっきの白紙の遺書を見て、大人たちは戸惑うでしょうね。このあみだくじは、別に一生見つからなくていい。社会の軽薄さを嘆く、私の生きた証拠」

「……誰も見ないんじゃ、証拠にならないですよ」

「貴方がこのことを覚えていたら十分。今から四年後の今日。私が大学四年生、社会に出る直前。結果を確認しに行きましょう。そしてこれに従うの。ここからの四年は、執行猶予期間」

 そう言って、先輩は文庫本をタンクの下に隠した。

「きっとそのとき、私は汚い大人になりかけている。もしこのくじが死ぬべきだというのなら、そのときはこの結果に従うわ」

「先輩さ、どうしてそんなに大人になりたくないんですか? この社会や大人が嫌いでも、先輩はみんなとは違うじゃん」

 何を今更、と嫌がられてしまうとしても、我慢できなかった。

「何歳でも、先輩は先輩。そんなにすぐに変わりゃしませんって。ていうか、大人ったって子どもっぽいままのオッサンとかオバサンばっかりじゃん」

「そいつらだって大人よ。幼稚な大人ってだけで、子どものときとは違う人間になってしまっている。それを成長とか、都合のいい言葉で呼ぶのかもしれない。でも、私はね、ずっとずっと、変わりたくない」

「……でも」

「私にとって大人になるってことは、今感じている閉塞感とか、死んでも構わないって言う刹那的な独りよがりを失うことなの」

「……」

「辛いわよ。でも、私は今の窮屈な私が大好きだから」

 先輩は台湾人の母親を持つハーフだ。そのことで、ただ異国の血が入っているというだけで、嫌な思いをたくさんしてきたと言っていた。今も、クラスでどこか浮いている。

 正直先輩に関しては、単に人柄の問題だろうけど。

 先輩はこの世界に違和を感じている。そして、それを作っているのは大人だ。小難しいことや、考えても仕方がないことに対し、疑問を持つのをやめて楽しく生きようとすること。

 ある程度「成長」した人間が選ぶ、正しい選択肢。高校を卒業した私が選んだ生き方。

 観念的な生き死に、正しさについて考えるより、家族の笑顔のために働いたり、もっとしょうもない自分の快楽を求めて生きることだ。

 だけどそれ自体、先輩にとっては逃避で、悪だ。

「四年後かぁ。私、忘れちゃってるかもしれませんよ?」

「いいわよ。できれば、忘れないでねってだけ」

 できれば、か。

 先輩らしい。

 絶対忘れるなって言いたいくせに、どこかで卑屈なんだから。

「冗談ですよ! 絶対に、変わらないし……忘れませんから。約束です」

 先輩は珍しく微笑して、「ええ」と静かにまた本を読み始めた。

 ……夏休みが明けてからも、先輩が卒業するまでは屋上で顔を合わせた。でも、その約束について触れることはなかった。

 卒業するときもその確認をせず、いつもと同じように別れた。その後も連絡を取り合ったことはない。

 私はこの四年間、ずっとこの約束を覚えていた。けれど、なるべく思い出さないように目を逸らし続けた。

 昔の約束なんて、ビビ先輩だってもう覚えていないだろうと思いこもうとした。

 覚えていたって「あんなこともあったな」くらいに思っているだろうと言い聞かせていた。

 ビビ先輩はそんな人じゃないとわかりながら、自分の都合のいいように、同じ枠に嵌めこもうとしたんだ。

 そんな人間が、どうして特別になれるだろう?

 先輩は、四年前と変わっていなかったのだ。

 社会を睨み、大人になることを拒み、女子高生だった頃の自分を「昔は若かった」なんて裏切りはしなかったのだ。

 そのことが眩しくて苦しかった。

 結局、約束は覚えていたのに確認には行かなかった。

 すっかり変わってしまった私はもう、先輩に合わせる顔がなかった。

 何より、もうあの頃の自分に戻るのは嫌だった。先輩に会うと、彼女の引力にひかれ、またあのときに戻ってしまいそうだったからだ。

 私が彼女の死を知ったのは、朝方、学校のそばを取り巻く救急車とパトカー、そこで交わされていた立ち話。

 強い罪悪感に駆られた。

 もし、私が屋上に行きさえすれば、あのあみだくじを冗談に出来たかもしれない。

 死を止められたかもしれなかった。

 私はますます、先輩から逃れられなくなってしまっていた。

 だからこそ、私は根岸のもとへ走ったのだろう。

 彼にビビ先輩の気持ちを代弁してもらい、追悼の歌をうたうことでしか、押しつぶされそうな思い出から救われることはなかった。

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