【第4章・肘井ちひろにビタミンはいらない】『私の気持ちは神様だって知らない』

「ちひろは、高校を卒業したらどうするの?」

 ビビ先輩は、いつも私にあまり質問をしなかった。

 ましてやこんな、父親が娘とどうにかコミュニケーションをとろうとするような尋ね方は珍しい。私はきょとんとした顔をしていただろう。

「え、どうでしょ、進路なんか考えたこともないですね」

 とぼけたが、付属の大学の医学部に進学することに決めていた。

 自分で言うのもなんだけど学校の勉強は出来る方だったし、父親が医者だったからか、小さい頃からそれを目指すのが当たり前だった。

 平凡で温かい家庭に育ち、ある程度将来の目安がついていたからこそ、私はアウトローぶっていることができたのかもしれない。(両親が健在だからこそ、根岸に「親がいない」なんて冗談を笑って言えたのだろう)

「本当に何も決まっていないの?」

 私はそんな進路を先輩に言うのが恥ずかしかった。

 クラスの連中とは違う特別な存在だってフリしていたくせに、結局まともな道を選んでいてしまっていたこと。

 先輩にだけは知られたくなかった。

 私はシンパシーを感じていた。先輩も態度は素っ気ないけど、同じように共感してくれていたんだと思う。

 周囲の人間とは違う存在。この世界の常識、大人達に染まることはない存在なんだって、思っていたかった。

「やりたいことはないの?」

「ないですけど……」

「何も?」

「ま、そこらじゅうでオープンセックスしたいなとは思いますね。授業中に廊下で、みんなが見守っている中、すっごい下品なべろちゅーとかして大声で喘いだりして、担任が止めに入ってきたら無理やり巻き込んで3Pに持ち込んだり!」

「貴方、そんなことがしたいの?」

「まぁ、みんなが嫌がることがしたいってだけですよ。しちゃいけないことがしたい」

「それは見て悦ぶ人もいるんじゃない?」

「先輩とか? ムッツリスケベですもんね」

「……不純異性交遊禁止、と学生証にあるわ。不純という言葉がぴったりね、いいんじゃない」

「睨みながら褒めないでくださいよ。とにかく何も考えてません。先輩こそ今年受験でしょ。大学はどこに行くんですか? てゆうか、そもそも行くの?」

 私は話を逸らしてしまった。

 この高校で、すぐに就職する生徒はいなかった。進学校だし、付属の大学もあるから、大多数の生徒が大学進学を選ぶはずだった。

「ええ」

 先輩の答えに、私は少し安心した。先輩も世界から孤立しているようで、どこかでルートから外れるのは怖いって思っているんだ、と。

「多分、教職をとるわ」

「先輩が先生に! へぇー、こんな無愛想な先生じゃ生徒は大変だ!」

 先輩は冷静な表情のまま「うるさい」と小さく言った。

「先輩向いてないですよ、やめたら?」と茶化すと、先輩はぽつりと呟く。

「いいのよ、教師にはならないから」

 教職をとるけど、先生にはならない?

「一応資格はとっておくけど、別の仕事がしたいとか? あ、こないだ言ってたバンドでプロデビュー? 先輩って意外とおめでたいですね、曲すらないのに。やっぱり歌詞くらい……」

「そうじゃないわ」

 先輩は、懐から封筒を取り出した。

 ――遺書。はっきりとそう書かれていた。

「!」

 私が動揺を示す前に、「これは白紙。フェイクよ」と彼女は珍しく自然に微笑んだ。何もかもが、唐突でわからなかった。

「……じゃあ?」

 先輩は、ルーズリーフを一枚取りだした。

 それを屋上の床に置き、なにかを書き始めた。シャー、シャーっと無機質な直線を連ねる音。迷いなく線を書く。今でもその音が耳に残っている。

 あみだくじ。

 先輩は書き終わると、くじの下の部分を折り曲げて隠した。

「昔ね、どこかの双子の女子高生が自殺をしたの」

「どうして、ですか?」

「あみだくじで『自殺』にあたったから」

 ……そう、

 

「それだけ? いじめられてたとか、誰かにフられたとか、家庭環境に問題があったとか、そういうのじゃないの?」

「理由はわからない。あったのかもしれないし、なかったのかもしれない」

「先輩、何か悩んでるの?」

「悩んではいない。でも嫌なの。生きていること自体に違和感がある。考え方を押しつけられる共同体にいることが、息苦しくて、ずっとずっとこれが続くと思うとゾッとする。あみだくじに殺された方がマシね、よく考えたものだわ」

 共同体。ピンとこない言葉だった。私たちが同じ世界に生きている、ということだ。

 もちろん、私だってそういう「共同体」みたいな大きな存在があるような、そんな気がしなくもない。

 だけど、一つのテレビを囲んで、少ない選択肢の中から番組を選んで見ていたような時代とは、なにか今は根本的に違っている気がする。

 優しさや正しさだけが全てじゃないと、私が見下していたクラスメイトだって知っているはずだ。

 私は思う。

 ビビ先輩の言っていることは、彼女が読んでいる古い本のような、文学的なことなのかもしれない。

 でもそれは、あまりにピントはずれで……。

 古臭い。そう感じてしまった。

 ビビ先輩が戦っていた「共同体」なんか、そもそも存在しなかったんじゃないだろうか?

「だから、死にたい? これっていう理由もなく?」

「命なんて、私達にとってはそんなに価値のないものなんだと思う。死にたいってわけじゃない。でも、生きていたいともそこまで思わない」

 生理的にはその意見をいいとは思わなかった。

 テンプレートな若者という感じがしたし、そんな風にいう人だって、結局いざ死を目の前にしたら怯えるに決まっている。

 ありふれた人間のくせに、自分を物語の主人公か何かと勘違いしている。

「今日ね、一八歳になったの。別におめでとうなんていらないわ。ただ、あと数年も生きればもう十分だと、再確認しただけだから」

 死にたいってわけじゃないけど、生きていたいとはそこまで思わない、か。

「私も、そうかもしれません」

 そうだ、私は先輩のその意見を、物語の主人公か何かと勘違いしていると馬鹿にした。

 ……でも、それってすごくかっこいいじゃん。

 私は今も、死んだあとも、この世界に残り続けたい。

 物語の主人公にもなれないやつが、そんなことができるとは思えないから。

「貴方も、死んでも怖くないというの?」

 大人達だって、かつてはビビ先輩のように思った瞬間があるかもしれない。

 でも、「一周回ってさ、普通に生きる方がいいと思って」とか、言い訳がましく笑うに違いない。

 先輩は性格がいいとはとても言えないけど、そういう軟弱で都合のいい自己防衛だけはしない。

「はい。ちっとも怖くないです」

 当時は本気でそう思っていた。でも、今になってみると、本当は怖かったのに強がっていたんじゃないかとも感じられる。

 そのときの私の本当の気持ちは、神様さえ知る由もない。

 どう思っていたにせよ、私は怖くないと答えていただろう。

 先輩が言うことを否定すると、結局私は彼女にとって、つまらない「大人」や「社会」の一員にされてしまう気がした。

 客観的にどうだ、なんてどうでもいい。

 だって、私と先輩は二人きりでしか会わない。

 一番好きな人に、つまらない当たり前の人間だと思われたくなかった。

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